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スターダスト☆レビュー 根本 要(Vo&Gu)- Key Person 第7回 –

■クラプトンの生き様こそが ブルースであり、僕の好きな音楽

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。第7回目となる今回は、スターダスト☆レビューのリーダーである根本 要(Vo&Gu)に語ってもらった。自分自身を“音楽好きな普通のアマチュアバンドが、運が良くてこんなふうになっちゃったって思ってる”と語る根本だが、デビューから40年以上が経っても変わらずに持ち続けている“音楽は楽しくあるべき”というスタンス、ライヴでの瞬発力と柔軟性、底尽きない好奇心が伝わる言葉の数々にはミュージシャンとしての心意気があふれている。

スターダスト☆レビュー

スターダスト☆レビュー:埼玉県出身の4人組ロックバンド。1981年にアルバム『STARDUST REVUE』でデビュー。39年目を迎えた現在も80公演を越える全国ツアーを展開し、総数は2400回を越える。エンターテイメントに徹したステージは観客を魅了し、文字通りのライヴバンドとして根強い人気を誇っている。01年8月にデビュー20周年を記念して静岡県つま恋で開催した『つま恋100曲ライヴ~日本全国味めぐり~お食事券付』において101曲演奏したことが“24時間でもっとも多く演奏したバンド”としてギネスワールドレコーズに認定されている。

■音楽は仏頂面で歌っても 何も伝わらない

──スターダスト☆レビュー(以下、スタレビ)は1979年に『第18回ヤマハポピュラーソングコンテスト』に出場し、「オラが鎮守の村祭り」で優秀曲賞を受賞。その後81年にデビューされましたが、コンテストに出る前はどんな活動をされていましたか?

「僕は埼玉県の行田市出身なんだけど、隣の熊谷市ではすごく音楽が盛んだったんですよ。その中に“木偶(でく)”という音楽サークルもあって、僕はたまたまその方たちと仲良くさせていただいてて、いろんな音楽を学ばせてもらいました。そのサークルは街で一番大きな八木橋デパートの地下を改造してライヴハウスもやってたので、僕も高校生の時からたくさんライヴをやらせてもらってたんです。練習スタジオとしても使わせてもらったんだけど、そこでは先輩たちの楽器も使わせてくれたし、その先輩方がまたサザンロックとかブルースロック、ラテンロックとか渋い音楽ばっかりやってたんですよ。そんな人たちに鍛えられて、育ててもらいました。僕らがプロになれたのはその人たちのおかげです。その後もライヴを続けていくうちに楽器屋さんから“お前たちコンテストに出てみなよ”って声をかけられて…それがヤマハのコンテストだったんです。でも、僕たちはコンテストを嫌がってたんですよ。」

──それはどうしてですか?

「コンテストって演奏できても1、2曲じゃないですか。そんなもんでは何も分からないだろうと。それまでも小さなコンテストに何度か出て優勝したこともあったし、“やっぱり僕らはライヴだな”ってことで、渋谷の屋根裏や道玄坂にあったヤマハ、それと大阪の小さなライヴハウスでやってました。それがディレクターさんの目に留まった…当時のアマチュアならみんなそういう流れでしょうね。今みたいにネットを使って音楽を聴いてもらうなんてことはなかったから。」

──今のスタレビもライヴバンドですから、当時の活動のスタンスがそのまま続いているんですね。

「まぁ、あんまり売れなかったから結果的にそうなっただけのことでしょう(笑)。それでもありがたかったのは、1stアルバムっていうのは誰もがアマチュアの時代に作るわけで、レコード会社のプロデューサーは普通ならプロとして売れるものを作ろうと“ああしろこうしろ”って言うんだけど、へたすりゃメンバーまで変えられちゃうこともあるのに、僕らはほとんど何も言われることがなかった。本当に自由に好きに作らせてもらいました。しかも、“お前らは売れるよ”ってすっごい言われた(笑)。デビュー曲の「シュガーはお年頃」(1981年5月発表のシングル)は、当時デビューしたてのバンドなのにシチズンの時計のCMソングに使ってもらって、周りからの評判も良くてだんだんその気になっていって(笑)。それまで売れたいなんて気持ちはひとつもなかったのに。」

──え、そうだったんですか?

「だって、自分の好きなロックバンド…例えば、はっぴいえんどやシュガー・ベイブは誰も売れてなかったから。みんな“僕らだけが知ってるバンド”だった。なので、デビューアルバムも正直言ってそんなに売れるわけないと思ってたし…まぁ、“もしかして売れるのか!?”って気持ちになったこともあったけど、案の定売れないわけですよ。だから、“やっぱりな!”っていうことで、落ち込むこともなく“だったらアマチュアの時と同じようにやればいいじゃないか”って。僕らにとってライヴバンドでいることは必然的っていうか、選択肢がそこにしかなかった(笑)。曲が売れなきゃレコーディングもさせてもらえないけど、でもライヴさえやってれば音楽をやっているっていう自負だけは持てましたね。お客さんは少なかったけど(笑)。僕らはバンドだから自分たちの楽器を持って身体ひとつあればお金はあまりかからない。なので、自然とライヴが中心になって、それが今でも続いているような感じですね。」

──もうひとつ若手の時からのお話でお聞きしたいのが、やはり根本さんの話術なのですが。もともとラジオやお喋りがお好きだったのですか?

「これはね、自信のなさだよね。例えばマイルス・デイビスっていうトランペット奏者はひと言もしゃべらないし、“サンキュー”すら言わないんだよ。音楽家は研ぎ澄まされればされるほど音楽こそが自分の言葉になっていくんだと思う。でも、その音楽に自信がないから言葉で補うのが僕(笑)。」

──いやいやいや!

「あとね、僕が子供の頃、ラジオから流れる音楽で学ばせてもらったんだけど、DJの人がその曲の解説や想いを熱く語ってくれてたんだ。それがとってもためになったんだよね。だから、僕もそうしようって思ったの。そうやって自分の曲を説明するようになって、だんだん喋りもうまくなっていたのかもしれないね。今なんて僕が喋りすぎちゃって“じゃあ、曲やります”って言ったら、お客さんはみんな聴き終わったような顔をしてるから(笑)。メンバーからは“どうして5分の曲を20分もかけて説明するんだ!”って言われるし。」

──ライヴのMCで“今日はあまりしゃべらないので音楽を楽しんでください”って言ったらブーイングが来たなんてお話もありますが(笑)。

「あははは。そんなことはないけど、うちはMCを挟むからライヴが3時間になるの。僕は解説をしたいんだよ。この曲はこうやって作って、聴きどころはここだぜって。それを分かって聴いてくれたほうが楽しいでしょ? あと、ライヴだとあまり歌詞が聴こえないことがあるじゃないですか。ちゃんと聴こえるように歌ってはいるけどライヴだと聴こえづらい部分は出ちゃうからね。“こういうことを歌ってるよ”っていうのを伝えていたほうが、多少聴こえないところがあってもお客さんが頭の中でつないでくれるわけ。日本語なのに何を言ってるか分からないライヴだともったいないでしょ? 歌詞の全貌も分かった上で聴いてほしい、その気持ちが僕のMCを作ったんだと思うよ。」

──もともとは音楽を伝えるために話していたことが、今ではラジオ番組もやっていらっしゃいますよね。

「さっきも言ったように、僕は音楽を熱く語るラジオのパーソナリティーの方からその素晴らしさを教えてもらったんです。だから、音楽が職業になった今、今度は僕が教えてあげたいと思ってラジオをやらせてもらってます。僕なりの恩返しです。今はラジオを3本やらせてもらっているけど、流す曲は必ず自分で決めるし、自分の買ったCDだけを局に持っていってかけてます。」

──全てミュージシャンとしてやっていることであると。

「うん。さだまさしさんのMCを聴くと話芸というか、構築された話し方ってあるんだって気づく。あぁいうものこそ卓越した話術って言うんだと思う。もちろんあの方もミュージシャンだけど(笑)。僕のは話芸じゃなくて、いつも行き当たりばったりだし、雑談だから。MCがうまい人はお客さんとの距離を縮めるのが上手でしょ? いつも夏のライヴのケータリングをしてくれるうどん屋さんの方がスタレビのファンになってくれて、毎回ケータリングが終わると客席でライヴを観てくれるんだけど、終わったあとに“要さんのお話ってなんでずっと僕に話しかけているように聴こえるんですかね?”って言ってくれたことがあって。そんなことを考えて話しているわけではないけど、その時は“おっ、俺もそこの域までいったか”って嬉しい言葉をもらいました(笑)。」

──スタレビはロックバンドですが、親しみやすさも特徴のひとつにあって、私はロックバンドと親しみやすさってあまりセットにならないイメージがあったので驚いたのですが、このように愛されるようになっていった背景にはどんな考えがあるのでしょうか?

「僕らは音楽好きの普通のアマチュアバンドが、運が良くてこんなふうになっちゃったって思ってるから、いわゆるロックバンドのイメージのような“俺は我が道を行くぜ! お前らついて来いよ!”っていう絶対的な自信に欠けてるんだろうね(笑)。これは僕個人の考え方だけど、音楽は人を楽しくしてくれるものだから、仏頂面で歌っても何も伝わらないっていうのが、ライヴをやる上での根底にあるんだ。一緒に楽しみたいし、僕が歌ってお客さんがただ拍手をするってだけだったらこんなにライヴはやってないと思うわけ。僕が歌って、お客さんも歌う。お客さんが拍手してくれて、僕たちもお客さんに拍手する。その関係がいつの間にかスタレビというバンドのライヴを作ったんだ思う。でも、最初からそうしようと思っていたわけではないよ。ヒット曲も出ず、それでもライヴをやればお客さんがだんだん集まってくれて、自然と出来上がっちゃったもんだから、もしヒット曲が出て、テレビにもガンガン出るバンドならこうなってはいなかったかもしれないね。“こうしたら面白くできるかな?”“こうすればお客さんも自分も楽しいだろう”っていうのを毎回更新していって、今のかたちができたんだと思うよ。」

──デビュー当時に“こんなバンドにしたい”と思っていたことはありますか?

「“プロになったら毎日ライヴやれるかな?”くらいは思ってたけど。でも、“俺はこういう人間なんだ”って分かった瞬間はよく覚えてるよ。スタレビはデビューから4カ月後の9月に日本青年館でデビューコンサートをやったのね。1,000人くらい入る会場だったけど、友達が200人くらい集まってくれて(笑)。その時のライヴが思いのほかウケたから、最後にアンコールでステージに出た時に“何かやらなきゃ”って思って、何を思ったのか突然バク転をしたの。そしたら、そこが滑りやすい場所で、顎から落っこちて、血まみれになって…でも、僕はそれにも気づかずニコニコして手を降ってた(笑)。お客さんは“大丈夫かぁ?”って感じで若干引き気味だったけど(笑)、きっとそれが俺でしょ? “お客さんが盛り上がってくれたら、なんか応えなきゃ”みたいな心が、きっと自分の中にあるんじゃないかな?」

──その気持ちがあるからこそ反射的にバク転をしてしまったってすごいお話ですね。

「それと同じようなことかもしれないけど、風邪をひいてコンディションが悪い時は、僕、アンコールで一曲増やすんですよ。普通なら曲を減らすところなんだろうけど、逆に“お気づきかと思いますが、私、本日風邪をひいております。このスペシャルな声で歌いたい曲があるのでぜひ聴いてください”って言うとみんな笑いながら頷いてくれる(笑)。僕はいつどんな時でも“今日の最善”っていうのがあると思うの。コンディションが悪かろうが、楽器に不備があろうが、今日だからこそできることがあると思うから、それをいつも見つけようとしているかな?」

──根本さんは以前“歌詞は生きものだ”と言っていたこともあって。今のお話を聞いて、ある曲をライヴで3回やり直した時に“今回は3部構成でお届けしました”というひと言で会場が笑いに包まれたというエピソードが思い浮かびました。

「あれはさすがに落ち込んだねぇ(笑)。よく覚えてるよ。さっきも言ったけど、歌詞が聴こえることは大事なことだと思うから、最近はプロプタを用意していて、一曲ごとにキーワードをまとめて出せるようにしてるんだ。2番の歌い出しとか、間違えそうなところだけね。それでも忘れることもあるんだよね。うちのお客さんは温かいから、それも喜んでくれるけど、本当に歌詞は年齢を重ねれば重ねるほど難しくなっていくね。どこまで覚えられるんだろう? もちろんできるだけのことはするけど、僕自身歌詞を見ながら絶対間違えずに歌うことが正しいとも思っていないからねぇ(笑)。」

──起きたことの全てをエンタメに変えて、その日ならではの特別感にしてしまうという。

「そうありたいね(笑)。誰だって“面白かった!”って言われたいよ。高い金を取ってんだからさ、“今日はつまんなかったな”って帰すわけにいかない。しかも、その日のためにみんながスケジュールを調整して、電車やらバスで来てくれているわけじゃないですか。その人たちを思うと“今日はダメでした”なんてことは口が腐っても言えないよ。僕はどんなコンディションであろうと絶好調だと思ってる。それがステージに立つことへの責任。MCもそうだよ。マスター・オブ・セレモニーなんだから、舞台全てを司る人間としてはそこまでの責任感は持っていたいって気持ちはある。それは僕に限った気持ちじゃないと思うけどね。」

■バンドに対する責任が また違うところで生まれた

──40年以上音楽をやっていて、今思うとキツかった出来事はありますか?

「強いて言えばメンバーチェンジだね。僕がなんでバンドをやっているかと言うと、ひとりではできないことをやろうとしているからで、それは1年目よりは5年目のほうが成長していくんだよね。経験値によってバンドの音も熟成するはずなんだ。だから、デビューした時から“メンバーチェンジをする時は解散をする時だ”ってずっと言ってたんだよ。94年いっぱいで初代キーボードの三谷泰弘が辞めるって話になった時、僕は“これはもう解散だな”って思ってた。というか、事務所からも切られると思ったんだ。誰もが知ってる、金になるようなバンドでもないし(笑)。ところが、スタッフから“スタレビは続けるべきだ”って言われて、メンバーと話し合って続けることを決めたのね。あの時が一番しんどい時かもしれない。デビュー前は僕が自分で曲を作って歌って、リーダーってこともあってほぼ自分で何でもやってきた。でも、デビュー前にキーボードが脱退することになって、三谷くんが入ってくれて…彼の才能は素晴らしかったよ。キーボードだけじゃなくて、コーラスアレンジだったり、僕の知らない音楽もたくさん教えてくれたしね。80年代後半からちょうどコンピューターや打ち込みを使った音楽が主流になり、そんな中で彼の音が大活躍してくれたんだ。その流れの中でたくさんのCMソングをやらせてもらったり、ちょっとおしゃれなシティポップの枠に入れるような曲も作れた。僕もそんなサウンドが大好きだったから何の抵抗もなく受け入れられたけど、僕には作れないと思っていたサウンドだったからね。そんな彼が辞めて、バンドも解散しないなら、僕が再度引っ張るしかないと思ったんだ。やりたい音楽は山のようにあったし、バンドに対する責任がまた違うところで生まれた感じだね。それを95年からやり始めて、何となく今も続いてるというところです(笑)。」

──では、根本さんの音楽人生の中でのキーパーソンはどなたですか?

「エリック・クラプトンだね。音楽という人生を彼が教えてくれた気がします。彼はいつもブルースを語ってくれたのね。子供の頃、僕は彼らの作るイギリスのブルースしか知らなかったけど、彼はずっとアメリカの黒人たちのブルースを語っていて、そこから僕も興味を持ち始めたんだ。彼らは60年代半ばにロンドンにブルースブームを巻き起こし、本国アメリカのブルースマンたち、B.B.キングやハウリン・ウルフやチャック・ベリーをロンドンに招き、紹介したりしてるんですよ。クラプトンはいつも自身のルーツを語った上で自分の音楽を作り続けてて、そういう“人生の音楽”は彼から学びました。人生の中にある音楽の大切さや、人種や国を超えること、自由であることを教えてくれたのは彼です。自分の名前を隠すためにイギリスからアメリカに渡ってDerek and the Dominosを作り、女性関係やドラックでむちゃくちゃになったり、お子さんや仲間を亡くされたりもしたけど、どんなどん底でもクラプトンには助けてくれる人がいて、彼はその恩を忘れないんですよ。だから、たくさんの人に語られてるし、そのためのライヴをやり続けているんです。いわゆるエイド的なライヴには必ず参加してるしね。しかも、今もバリバリ現役のブルースマン。…50年代とか60年代には確かに黒人のブルースがあったけど、90年代、00年代のブルースを作ったのはエリック・クラプトンですよ。それくらい僕にとっては今も追いかけ続けている存在です。彼の生き様こそがブルースであり、僕の好きな音楽だと思ってます。」

──音楽だけでなく、その歩みに心を打たれたんですね。

「ちょっと話がずれるけど、僕の大好きなギタリストの内田勘太郎さんは、たまに行方不明になるんだよ。“何で旅に出ちゃうの?”って訊いたらね、“時たまな、ブルースがよう分からんようになんねん”って。それはすごいことだなって。職業とかじゃないんだよ。ブルースという生き方なんだよね。僕自身はそこまで行けないって分かってるからさ、そんな話を聞くと自分の器の小ささを感じてしまう。でも、そんな人が僕の周りにはいっぱいいるだけでもすごく嬉しいんだよね。」

取材:千々和香苗

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