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亜無亜危異(仲野 茂、藤沼伸一)- Key Person 第5回 –

■自画自賛だけど、 俺たちは目の付けどころがいいんだよ

J-ROCK&POPの礎を築き、今なおシーンを牽引し続けているアーティストにスポットを当てる企画『Key Person』。第五回のゲストは2018年1月に新宿LOFTにてオリジナルメンバー4人で不完全復活を果たした亜無亜危異から、仲野 茂(Vo)と藤沼伸一(Gu)。1978年に同級生5人で結成し、流行りや風潮に乗ることなく、紆余曲折しながらも己の信念を貫いてきた亜無亜危異。本記事ではふたりにとってのキーパーソンについてうかがいながら、頑なな印象からは拍子抜けするようなエピソードも語ってもらった。

亜無亜危異

1978 年、埼玉県にて同級生5人で結成。80年、シングル「ノット・サティスファイド」とアルバム『アナーキー』でデビュー。86年にバンド名を“THE ROCK BAND”に改名するが、2 枚のアルバムを残し活動休止。94 年に一夜限りの再結成ライヴを行ない、97年には仲野茂、藤沼伸一、寺岡信芳、そして元 WRENCH の名越藤丸をドラムに迎え4 人で再始動。デジロックの要素を取り入れたバンドに生まれ変わり活動を続けるが、01 年に活動休止。13 年、オリジナルメンバー5人でイベント出演し、17 年に再び5人でのイベント出演がアナウンスされるが、ライヴを前にマリ(逸見泰成)が急逝。4人での出演となった。そして、18年1月に新宿 LOFT にてオリジナルメンバー4人で不完全復活を果たし、同年9月にはミニアルバム『パンクロックの奴隷』をリリースした。

■“カテゴリーがない”という 新しいカテゴリーに食い付いた

──亜無亜危異は“アナーキー”名義で1978年、当時18歳の頃に結成されましたが、どんな流れでバンドを組んだのでしょうか?

仲野
「みんな高校の同級生なんだけど、伸一と寺岡とコバン(小林高夫の愛称)は中学からの同級生で、そこに俺とマリ(逸見泰成の愛称)が乗っかっていったっていう感じかな。タイミング的にSex Pistolsの『Never Mind The Bollocks』ってアルバムが日本に上陸してきた頃で、そこに食い付いたっていうのもあるね。」

藤沼
「まずパンクをやろうって思ったんだよね。それまではハードロックだったり、ロックンロールが流行りだったから“パンクって何だこれ? やってみようぜ”みたいな。なんかできそうな気がしたんだよ。“テクニックもそんなにいらないんじゃね?”って(笑)。」

仲野
「もうひとつ付け加えると、当時のロックっていうのはロン毛にロンドンブーツにエレキだったの。ただ、俺たちが通ってた学校はロン毛にできなくて。」

藤沼
「刈り上げないとダメだったからね(笑)。」

仲野
「髪の毛が伸びないと延々とエレキが持てないっていうかさ…まぁ、カツラを被っちゃえば良かったんだけど。そんな時にピストルズが日本に上陸して、俺たち5人が集まって最初にしたのは髪を切ることだったんだよ。それもかなり短くね。」

──ピストルズはバンド名の由来にもなっていますね。

藤沼
「うん。まずはピストルズをきっかけにバンドを組んで、そこから「Anarchy in the U.K.」っていう曲の“アナーキー”を茂が革ジャンにマジックで書いてたんだっけな? その時は“アナーキー”の意味さえ分かってなかったけど“それでいいんじゃね?”って決めたんだよね。バンドを組んでからはみんなで集まって同じ曲を聴きながら、The ClashやeaterとかStiff Little Fingersの曲をカバーして、英語だと歌えないから日本語の歌詞を付けて練習してたね。」

仲野
「英語ができたらそのまま歌ってたんだけど、全員ダメだったんだよ(笑)。」

藤沼
「日本語もちょっとダメだけどね(笑)。」

──ピストルズやパンクロックのどこに惹かれたのでしょうか?

仲野
「俺はもともと日本のロックがすごく好きだったし、70年代は世界でハードロックが流行ってたんだけど、それがどんどん解散しちゃったんだよ。Deep Purpleとか、頭脳警察とか、外道とかね。それで急に聴く音楽がなくなった瞬間があったわけよ、俺の中でね。そしたら少し間を空けてピストルズがバーン!と出てきたの。その時の衝撃がすごくてね。」

藤沼
「ハードロックが鎮火していったところにピストルズが出てきて、しかも髪の毛が短くて立ってる、歌い方が汚い、食べ方が汚い…とか、ガキにとってはその全部がヒーローに当てはまる感じがあったんですよ。カテゴリーがないっていう新しいカテゴリーに“すげぇ!”って食いついたんだよね。」

仲野
「ロックがどんどん抑制されて、ミュージシャンっぽくなって、クラシカルになって、自分で自分の首を絞めていたところに、ピストルズがロックの始まりみたいな存在となって現れた。」

藤沼
「それを若い子たちが喜んで“やった! 勉強しなくてよくね?”ってな感じで聴くわけで(笑)。」

──初ライヴのことは覚えてますか?

仲野
「同級生を50人くらい集めてやった江古田マーキーでのライヴが初めてだった。わざわざ“メンバー紹介!”とかやってね。」

藤沼
「“知ってるよ!”って言われてさ(笑)。」

仲野
「“ロックバンドっぽいことをやりてぇんだよ、黙って聞け!”って(笑)。ピストルズがロンドンで初めてライヴをした場所が“マーキー・クラブ”だったから、“俺たちもデビューするならここだな”なんて言ってやったんだよ。音がうるせえって警察が来て演奏中止になっちゃったけど。」

──大騒ぎだったと思いますけど…カッコ良いエピソードですね。

仲野
「しかも、その同級生がみんな車で来てたから十何台かあったんだけど、駐車場がなくて全部が駐車違反で。警察が一旦持って行って、ライヴが終わったあとにまた持ってきてくれたものの、みんなから“お前、レッカー代出せよ”とか“お前のライヴの倍かかったよ”って言われたね(笑)。」

■メジャーがどういうものなのか 分かってなかったからメシで決めた

──その後はどんな活動をされていたのですか?

仲野
「マーキーでライヴをやったあと、次にどうしていいか分からなくて、伸一の地元の公民館でリハしてたんだけど、スタジオじゃないから当たり前に怒られたりしてね。で、池袋の楽器屋でリハを始めたの。そこはすごく大きい楽器屋で、ステージもあって。マリが別のバンドでリハしてるのを観てて、なんかすげぇなって思ってたら“今度『EastWest』(1979年に行なわれたヤマハ主催のアマチュア音楽コンテスト)っていうコンテストがあるから出てみないか?”って声をかけられたんだよね。参加費が3,000円でひとり600円くらい。当時はお金が全然なくてスタジオ代も大変なくらいだったんだけど、もう出るところもないし、出てみようぜってなって。それで出てみたら、思いのほか勝ち上がっていったわけ。そしたらスタジオ代とかもタダになったんだっけな? で、スタジオの人が応援してくれて、メシも奢ってくれるようになって、こりゃいい!って(笑)。最後の決勝を中野サンプラザでやった時に優秀バンド賞と最優秀ヴォーカリスト賞をもらって、ソニーとビクターがスカウトに来たんだよ。」

──1980年にビクターからアルバム『アナーキー』でデビューされるわけですが、最初にソニーから声がかかった時は“ピラフを奢ってもらったからもうソニーでいいや”と思っていたというエピソードもありますよね。

藤沼
「その時はメジャーっていうのがどういうものなのかも分かってなくて、“レコードが出せるみたいだぜ”くらいの気持ちだったんだけど、先にソニーに呼ばれてピラフを奢ってもらった時に“こいつらいい奴らだな”なんて思ってね(笑)。」

仲野
「そう。ビクターの人にも会ったんだけど、話に夢中で“何か食べる?”って言ってくれなかったんだよ。」

藤沼
「あはは。」

仲野
「俺らは分かってなかったから、当時はビクターでもソニーでもどこでも良かったんだよね。」

藤沼
「単純にビクターは最初に会った時にメシの話が出なかったと。で、ソニーはまず“ピラフでも食べる?”っていうのがあった…って全然反体制じゃないよな(笑)。」

仲野
「“ビクターはコーヒーだけだったよな。どうする?”なんて話して。それでソニーに決めちゃったんだけど、ビクターの当時のディレクターだった村木敬史さんが“何でソニー?”って俺に電話をくれてさ。“ピラフで決めた”なんてダセェから言いたくなかったけど、すごく熱心に理由を訊いてくれるから正直に言っちゃったんだよね。そしたらメンバーを集めてくれって言われて、池袋ですげぇご馳走になっちゃったの。」

──あはは。

仲野
「それでメシ食いながら村木さんが“俺はアナーキーと一緒にやれなかったらレコード会社を辞めて、地元の広島に帰るくらいの覚悟でやってる。いいからどんどん食ってくれ”ってめっちゃアツくて…その“どんどん食ってくれ”が良くて(笑)。」

藤沼
「そうだね、そこだね(笑)。」

仲野
「メンバーみんなで一緒に住んでたからさ、帰って“村木さんのほうがご馳走してくれたじゃねぇか。ソニーはピラフだけだぞ!?”って逆転したんだよね。だから、みんなでソニーに“辞めます”って言いに行ったんだけど、やっぱりダメで。今考えたらそれが当たり前なんだけどね。大人にいろいろ言われてさ、そしたらずっと静かだった寺岡が、その時の担当だった奴の態度が気に食わないとか言い出して(笑)。」

藤沼
「メシで決めて、メシで気が変わっただけの話なんだけど、嫌な奴が出てきたおかげでそいつのせいにできたっていうね。」

仲野
「で、いろいろ揉めたのにソニーから“仮契約しちゃったからダメだ”って言われてさ、さすがに俺たちも“はい”って言っちゃったんだよ。だから、またビクターの村木さんに報告をしたんだけど、俺たちは19歳でまだ当時は未成年だったから、契約に関しては親の承諾がないと無効だってことが分かって…それでビクターからデビューしたっていう。面倒くさいでしょ?」

──いやいや。右も左も分からない状態での板挟みは大変だったかと。

仲野
「デビューしたあとも“アナーキー? 大丈夫大丈夫、あいつらは食わせとけばいいから”っていう感じで、中華とか焼肉とか連れて行かれて契約書を書かされてね(笑)。“アナーキーは何でも食うから”とか言われて、人を紹介される時は必ず飯屋だった。それまではとにかく貧乏でメシが食えなかったから、“やっぱすげぇぞ!”って毎回バクバク食ってたら、デビューした時にはメンバーみんな10キロぐらい太ってたよ(笑)。音楽の話じゃなくて、パーティーでいかにして食うかっていうのをいつもミーティングしてたからね。お腹ペコペコで行った時にさ、いきなりローストビーフを食ったら胃もたれをしたわけよ。だから、帰って来てから“先に立ち食いそばでも入れたほうがいっぱい食えるんじゃないか?”って考えて、パーティーに行く前にみんなで軽く腹に入れるようになったんだよね。それで食えるようになったっていう。」

──まさかそんなところに知恵を使っていたとは。

仲野
「当時はバブルだからレコード会社もお金が余りまくってて、アルバム出したあとにヒット賞があってね、こんな俺たちを赤坂プリンスに招待してくれるわけ。バカじゃねえのって(笑)。まだ切れてないローストビーフを切ろうとしてボーイにすごい怒られたよ。ビクターの社長の話が終わってから切ろうと思ってたら、すでにメンバーみんな皿持って構えてて…って、このままじゃ食いものの話で終わっちゃうよ(笑)。」

──あはは。

■あそこで諦めてたら デビューできてないかもしれない

──BOØWYやTHE ROOSTERSとも親交があったと思いますが、特に刺激を受けたバンドや人物はいましたか?

仲野
「THE ROOSTERSだね。それまでロックは英語だって言ってた奴らが、サザンオールスターズが出てきた影響で“これからのロックは日本語だよ”って言うようになってさ。そんな中、THE ROOSTERSは英語で歌ってて、演奏もうまいし、“こいつらやるな”って思ったし、いい意味ですごいムカついたし、一番響いたんだよね。“こいつら面白いな”って思ったのを覚えてる。」

──アナーキーは流行りに乗らないと言いますか、周りと同じことをせずに自分で道を切り開いていくイメージがあるので、そのTHE ROOSTERSの変化球なアプローチがより気にかかったのでしょうか?

藤沼
「そうだと思うよ。」

仲野
「そういうことで言うとさ、自画自賛だけど、俺たちは目の付けどころがいいんだよ。昼夜食わずだったけどね(笑)。」

──藤沼さんはどうですか?

藤沼
「パンクはもちろんそうだけど、パンクが出る前から山口富士夫はすごく好きだった。ギターのプレイとかね。そのあとに80年代のブームがあって、俺は忌野清志郎さんに“おっ!?”と思って。昔はカリメロみたいな髪型でフォークをやってたのに、急に髪の毛を立ててさ、どうしたのかと興味があったというかね。泉谷しげるも“清志郎を見たらびっくらこいた”って言ってたよ。““愛し合ってるかい?”なんて言うタイプじゃねえぞ、あいつは人間としてひでぇからな”って(笑)。だから、“この人は何かあるな”ってずっと興味があったね。」

──30年前はバンド同士やリスナー同士での喧嘩もたくさんあったと思いますが、ぶつかり合って仲が深まった人はいますか?

仲野
「これもTHE ROOSTERSかな。当時はみんな仲が悪かったからね。“こいつらを蹴落とせば一番になれる”みたいなのがあって、イベントで一緒になることは多かったけど、口利かなかったもん。」

藤沼
「THE ROOSTERSに限らず、だいだいそんなんばっかりだったよね。俺たちだけがそうなんじゃなくて、相手方もそうだったから。」

仲野
「THE ROOSTERSも九州から出てきて“東京もんに負けるか”っていうのはあったと思うよ。TH eROCKERSの陣内孝則も仲良くなってから“てめぇ、何であの時は口利かなかったんだよ”って訊いたら“方言が出るのが嫌だったんだよ”って言ってたし(笑)。だから、90年代くらいになってバンドが自分のイベントをやるようになってからは、呼ばれて行ったらさ、みんなが和気藹々としててびっくりしたよな?」

藤沼
「うん。それはいい意味でも悪い意味でも、俺らを見てた連中が“あんなふうにはなりたくない”って思ったのもあるだろうね(笑)。」

仲野
「まぁね。当時は気に入らないバンドのライヴに襲撃するとかが頻繁にあったし。」

──今の楽屋なんかは当時の雰囲気と180度違うと思いますが、逆にそこまで変わると居心地悪かったりしませんか?

藤沼
「“よろしくね”とか言って、いい感じになるような態度はとってるよ。いいおじさん風にね。」

仲野
「そこは時代に合わせていかないといけないからね。」

藤沼
「“オラァ!”なんて言って入っていったら浮いて仕方ない。」

仲野
「でも、ひとつムカつくのはさ、俺への勝手なイメージかもしれないけど、“酒を飲んで暴れないんですか?”とか言ってくる奴がいるんだよ。“テーブルをひっくり返さないんですか?”とか言ってさ。当たりめぇだろ! そんなことしたら請求書が大変だよ。」

──あはは。今回はバンドの歴史のほんの一部を聞かせていただいたわけですが、中でもご自身に起きた転機や、忘れられない出来事はありますか?

仲野
「やっぱり『EastWest』じゃない?実は一回落っこちてるんだよ。“アナーキーはいいんだけど、今回はごめんね”みたいなこと言われて。俺たちも最初は勝ち上がっていく気なんてなかったのに、実際に進んでいったら欲が出てきて、審査員のところに“何でいいのに落とすんだ”って言いに行ったんだよ。そしたら“もう一個同じ大会をやるからそっちに出てみなよ”って言われて、2回目のコンテストで決勝の中野サンプラザに出れたの。あそこで諦めてたらこんなふうにはデビューできてないかもしれない。」

藤沼
「うーん、俺は全部が転機だからね。茂が言ったコンテストもそうだし、“アナーキー”って名前が使えなくなって“THE ROCK BAND”って名前にした時もそうだし、新生アナーキーって打ち込みのユニット作った時もそうだし、3・11が起きて自分の中でも変わったこともそうだし。あと、マリが亡くなったことで、またみんなでやるかってなって、今の“亜無亜危異”って名前でミニアルバム『パンクロックの奴隷』(2018年9月発表)を出したことも転機だしね。数えきれない。」

──では、最後におふたりにとってのキーパーソンとなる人物はどなたでしょうか?

仲野
「お前は父と母って言うんだろう?」

藤沼
「言わないよ(笑)。」

仲野
「俺はやっぱり頭脳警察のPANTAかな。「ふざけるんじゃねえよ」っていう曲をラジオで聴いてからすごく好きでさ。そんなPANTAとの対談が決まった時、会えるのが嬉しくてね。でも、その時には頭脳警察はもう解散してて、PANTAが『KISS』っていうアルバムを出したんだけど、それが大嫌いだったんだよ。その矢先に対談が決まったから、俺はどうしていいか分からなくて。憧れの人に会いたいし、俺もやっとここまで来たっていうタイミングなのに、PANTAはクソみたいなアルバムを出しやがって(笑)。当日、PANTAは取材場所にバイクで来たのね。俺はどうしたらいいか分からなかったから、PANTAのヘルメットを被ってずっと黙ってたの。だから、その対談の記事を見ると、俺だけヘルメットを被ったまま黙ってて宇宙人みたいなの。PANTAもやさしいから、何も文句を言わずにいてくれて、俺もあんなに憧れてるPANTAのヘルメットを平気で被って“口利きたくない”なんて言ってたんだから大したもんだけど、そんな俺をPANTAは許してくれたんだよね。」

藤沼
「おかしな話だよ!(笑) 俺はやっぱり清志郎さんかな? 今でこそ伝説化されちゃったけど、本当はそんなにいい人じゃないっていうか、すげぇ悪い悪戯おやじなんだよ。俺はその悪戯感とか、本当か嘘なのか分からないところも好きでさ。清志郎さんが俺にコソッと“俺、もっと有名になって悪戯がしてぇな”って言ったのよ。あの人のアルバムなんてさ、“君が大好きで金なんかどうでもいいぜ”って歌ったかと思えば、次の曲で“女なんてどうでもいい”って歌ってるからね。そういうところが大好きなんだよね。あと、泉谷をいっぱい怒ってくれるんだよ(笑)。“泉谷、歌をちゃんと大事にしろよ。馬鹿野郎!”なんて言ってくれて、そういうあの人の精神が好きでさ。アルバム『パンク修理』(2020年5月発表)にユーモアが入ってるのは清志郎さんの影響というか、そのやり方が好きだからなんだよね。批判にしてもさ、THE TIMERSは頭から怒ってるわけではないじゃん。あの辺のセンスが俺は好きなんだよ。見習ったりとか、影響は受けてますね。」

取材:千々和香苗

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