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小泉今日子がオンリーワンのアイドルなことを証明するアルバム『今日子の清く楽しく美しく』

何かいろいろあって、今月は1980年代女性アイドルの名盤を図らずも紹介しているのだが、松田聖子、中森明菜、薬師丸ひろ子と来て、この人を登場させないわけにいきますまい。なんてたって小泉今日子である。その理由は本文であれこれ書いたのでここでは多くを述べないけれども、アイドル史のパラダイムシフトを起こしたアーティスト。彼女がいなければ今日のアイドルカルチャーの隆盛はなかったと言ってもいいのではないかと思う。

■1980年代女性アイドルの三傑

1980年代の音楽シーンを知る人に“1980年代を代表する女性アイドルは?”と尋ねたら、十中八九、松田聖子、中森明菜、そして小泉今日子という名前が挙がるのでないだろうか。もちろん、そこに先週紹介した薬師丸ひろ子や、“花の82年組”と呼ばれた堀ちえみ、松本伊代、早見 優らが加わることもあろうし、1980年代後半に思い入れのある人から中山美穂や工藤静香の名前が挙がっても不思議はない。しかしながら、トップ3、あるいはベスト3と限定した場合、それを松田聖子、中森明菜、小泉今日子とすることに異論のあることは少ない気はする。Wikipediaの小泉今日子のページにも[アイドルとしては松田聖子と中森明菜の2強に続いた存在]とある([]はWikipediaから引用)。テレビ番組『クイズ 100人に聞きました』で関口 宏が“1980年代を代表する女性アイドルと言えば?”と出題したとして、その解答にこの3人の名前が出たとしたら、当然のごとく、観客の“ある! ある! ある!”の声は多くなると思う。

つまり、松田聖子、中森明菜、小泉今日子は1980年代女性アイドルのトップ3、ベスト3と断言しても差し支えはないはずだが、“その根拠はどこにあるのだろうか?”と少し気になって調べてみた。まず音源のトータルセールスの比較を試みた。トータルの売上は公式記録があるわけではないので、個人でやられているwebサイトをいくつか参考させてもらった。こと1980年代においては、松田、中森、そして小泉が、女性アイドルという括りにおいて、少なくとも売上累計ではトップ3であることは間違いないようだ。ただ、抜きん出た存在であった松田、中森に比較すると、小泉はそこに肉薄するまでには至っていない。はっきり言ってしまえば、松田、中森がダブルスコアで小泉を離していた感じである。松田、中森両名が高レベルすぎたということもある。1980年代中盤まではふたりで女性アイドルシーンを独占していたと言っていいかもしれないほどで、松田、中森、小泉が1980年代女性アイドルのトップ3であることは間違いないけれども、少なくともその数字を見ると、三すくみということではなかったということになる。

それでは、記録のほうはどうだろうかと、これも調べてみた。個人的にも、小泉今日子のブレイクポイントは、彼女が髪型をショートにした5th「まっ赤な女の子」(1983年5月)だったと記憶している。とりわけファンというわけではなかったけれど、1982年のデビュー時から“この人は人気になるだろうなぁ”と思っていて、ラジオからよく流れて来た「まっ赤な女の子」を“やっぱりなぁ”と思って聴いていたこともよく覚えている。そういう輩は多かったと思う。彼女がシングルチャートで初めて首位を獲得したのは、その「まっ赤な女の子」から1年足らず。9th「渚のはいから人魚」(1984年3月)である。そこから、7作連続チャート1位を獲得している上(12インチシングル「ヤマトナデシコ七変化(Long Version)」(1984年11月)や、KYON2名義の「ハートブレイカー」(これも12インチ。1985年6月)は除く)、「水のルージュ」(1987年2月)、「キスを止めないで」(1987年10月)、「見逃してくれよ!」(1990年3月)、「あなたに会えてよかった」(1991年5月)と90年代になっても首位となったのだから、これはもう小泉今日子がトップアイドルであったことは疑いようがない。

さて、ここで本稿は小泉今日子をディスりたくて書いてるわけではないことを一応断りつつ、もう少しデータ分析(?)を続けることをご了承いただきたい(一見、貶めるように見えて最後にはちゃんと持ち上げるのでご安心ください)。彼女が多くのシングル作品で1位を奪取したことは紛れもない事実であるが、これを年間チャートを通して見てみると、少し興味深い側面が見えてくる。週間でチャート1位を獲得した楽曲であっても、発売年の年間チャートのトップ10にそのタイトルは出てこない。それもまた事実なのだ。つまり、やや乱暴に言ってしまえば、彼女にはロングセールスがないのである。1980年代、松田聖子と中森明菜は年間シングルチャートのトップ10に2、3曲入れている年も少なくない。

また、同時代に活躍した薬師丸ひろ子は年間に1枚しかシングルを発表していないにもかかわらず、1982年に「セーラー服と機関銃」を年間2位に、1983年には「探偵物語/すこしだけやさしく」を年間4位にランクインさせている。1986年には、おニャン子クラブから最初にソロデビューした河合その子の「青いスタスィオン」も年間10位となっているにもかかわらず、小泉今日子の楽曲はそこにないのである(おニャン子クラブならびに河合その子のファン方、何かすみません。一応謝っておきます)。この年間シングルチャートも50位まで広げると、もちろんそこには小泉も登場してくるのだが、それにしても彼女が初めて1位を獲得した「渚のはいから人魚」にしても年間では25位。1985年に「The Stardust Memory」が年間14位、1987年に「木枯しに抱かれて」が年間11位と、もう少しでトップ10というところまで行っているが、あとは全て20位以下という結果である。

■「なんてったってアイドル」の衝撃

まぁ、総合売上が松田聖子、中森明菜のそれには届かなかったからと言っても、年間チャートでシングル曲が上位に入らなかったからと言っても、1980年代からの小泉今日子の足跡は立派なものであることは言うまでもない。十二分すぎる功績であって、単に上には上がいたという話である。ただ、どうだろう? 数字や記録はともかくとして、最もアイドルらしいという切り口で言ったら、ここまで出て来た他アーティストに比して、小泉今日子がダントツにアイドルじゃなかろうか。冒頭で“テレビ番組『クイズ 100人に聞きました』で関口宏が“1980年代を代表する女性アイドルと言えば?”と出題したとして…”と分かる人には分かる例えを出したが、今、本当にそれをやったとしたら、案外、回答のトップは小泉今日子ではないか。個人的にはそう思うし、トップが小泉今日子だったとしてもそれに反論する人は確実に少ない気はする。

松田聖子、中森明菜、あるいは薬師丸ひろ子の熱狂的なファンにしても、それを容認するというか、“そりゃあそうだろうな”と妙に納得するのではないかとも思う。イメージの問題と言われればそこまでだろう。しかし、そこが肝心であり、要である。何しろ小泉今日子自身の楽曲の中に《イメージが大切よ》とあるので…と、それは半分冗談にしても、その渦中において“アイドル”というイメージを鮮烈に提示した人物は彼女の他にいなかったのではないか。少なくとも1980年代においては、小泉今日子以外にはいなかったと断言できる。これに同意してくれる諸兄は多いと思う。そう考えさせてしまうのは、それはとりもなおさず、17thシングル「なんてったってアイドル」(1985年11月)がシーンに与えたインパクト──これに尽きるのではなかろうか。これにもみなさん激しく同意していただけるのではないかと思われる。「なんてったってアイドル」の歌詞を下に記すが、こんなことを歌うアイドルはそれまでいなかったのだ。

《黒いサングラスかけても プライバシーをかくしても/ちょっとくらいは誰かに そうよ私だと/気づかなくちゃ イヤ イヤ》《恋をするにはするけど/スキャンダルならノー サンキュー/イメージが大切よ 清く 正しく 美しく》《ずっとこのままでいたい 年なんかはとりたくない/いつもみんなにキャーキャー 言われ続けたい/楽しければいい いい》(M5「なんてったってアイドル」)。

当時でも“アイドルはトイレにいかない”と真面目に信じていた人はいなかっただろうが、アイドルは俗なことを公にしないという不文律は確実にあった。それは言わば“偶像崇拝”と呼んでいいものだと思うが、小泉今日子は「なんてったってアイドル」でそれを打ち破った。アイドルの脱構築をしたのである。これは誰にでもできることではない。アイドル以外がこれを言ったところでアンチになるだろうし、下手をするとやっかみととらえられかねない。アイドルにしても、三下は論外としても、中堅がそれをやったところでしらけるだけだ。いずれにしても、御法度に触れるようなことをするメリットもないし、そうしたところで見向きもされないことは容易に想像がつく。これをやれたのは逆説的に小泉今日子がトップアイドルであった証しである。その意味で「なんてったってアイドル」は本当に天晴で、芸能史における偉業ではないかと思う。その一点だけでも小泉今日子は1980年代女性アイドルのトップ3であることは間違いないし、誰もやらなかったブレイクスルーを成し得たのだから、オンリーワンのアイドルであったと言ってもいいと思う。

■デビュー前の久保田利伸も参加

その「なんてったってアイドル」が収録されたアルバムが『今日子の清く楽しく美しく』である。本作からも脱構築がうかがえる。この頃はまだアナログ盤も普通に出ていたからだろう。収録曲を半分に分けて(LPではA、B面を)それぞれ“IDOL SIDE”と“ARTIST SIDE”としている。そう分けているところに、本作が「なんてったってアイドル」発表後の作品であることが際立っているし、不文律を打ち破った小泉今日子がネクストレベルへ入ろうとしていたことを印象付けている。象徴的なのは“IDOL SIDE”がM1「なんてったってアイドル(アナザー・ヴァージョン)」で幕を開けていること。アイドルの脱構築だったM5に対してM1はそのセルフパロディーである。こんな歌詞だ。

《あの日「スター誕生」で/石野真子さんの歌を/少し音程外(はず)して/審査員達の/視線を釘づけ》《営業スマイルなんて/死んだって できないし/スタッフに内緒で いきなり/スースーするほど/刈り上げちゃったわ》《ずっと変わらずにいたい/誰にも縛られたくない/私は私 自由に/生きてみたいだけ/面白ければいい いい》(M1「なんてったってアイドル(アナザー・ヴァージョン)」)。

演劇や映画で言うところの、いわゆる“第四の壁”(※註:物語の中のフィクションと現実世界のノンフィクションとの間にある目に見えない壁)を破っている気さえする。小泉今日子はのちにシングル「なんてったってアイドル」を指して、当時は[「またオトナが悪ふざけしてるよ」と]述懐したそうだが([]はWikipediaから引用)、確かにここまでくると、彼女自身というよりもスタッフが(この表現は適切ではないかもしれないけれど)完全に調子に乗っていたことも分かる。まぁ、それまでどのアイドルもやったことがない偉業を成し遂げたのだから余程イケイケだったのだろう。これ以外の“IDOL SIDE”では、当時の風俗や時代性を強調した歌詞が見受けられることも、そのイケイケ度合いが想像つくところである。

一方、“ARTIST SIDE”は、そのお調子に乗ったところがない分、普遍的とは言えるとは思う。何と言っても注目はM6「NUDIST」とM7「教会の前で」だろう。両曲とも作曲を久保田利伸が手掛けている。田原俊彦のシングル「It’s BAD」(1985年11月)がデビュー前の久保田の作曲であることはわりと有名な話だと思うが、久保田のメジャーデビューは『失意のダウンタウン』(1986年6月)だから、M6、M7も巷にその名が広まる前の久保田作品である。共に今聴いても完全に“久保田節”とも言えるメロディー(と言うよりも“節回し”と言ったほうがぴったりくると思う)。はっきり言うと、それが小泉今日子に合っていたかどうかは個人的には微妙に思うが、ひとつの事象を解体して新たな事象を再構築する意味において、これもまたアイドルの脱構築のひとつと見ることができよう。それもまたこの時期の小泉今日子だからこそできたことだと考えると、そこもまた本作の味わい深さではであろうとは思う。

TEXT:帆苅智之

アルバム『今日子の清く楽しく美しく』

1986年発表作品

<収録曲>

1. なんてったってアイドル (アナザー・ヴァージョン)

2. 派手メに真面目

3. 純ワル過激ハ粋っ美人

4. 100マイル

5. なんてったってアイドル

6. NUDIST

7. 教会の前で

8. Slow Dancer

9. U・BU

10. 魔女

11. 風のファルセット

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