本作『オデッセイ・アンド・オラクル』はローリングストーン誌の『史上最高の500枚のアルバム』の最新版(2012年)で100位に選ばれているのだが、この企画がポピュラー音楽全般を含んでいることを考えると、ゾンビーズの健闘ぶりはたいしたものではないか。ビートルズとビーチ・ボーイズがいなければ彼らの存在はなかったかもしれない。しかし、彼らはただのそっくりさんではない。本作に見られる高いポップ性とクールな佇まいは、この先長い時間が経っても決して古臭くならないだろう。ロック史上に残る傑作である。
■ブリティッシュ・インベイジョンでの 成功
1961年、ゾンビーズはジャズやクラシックが好きなロッド・アージェントを中心に結成された。当時、アメリカではエルビス・プレスリー(56年にアルバムデビュー)をはじめ、チャック・ベリーやファッツ・ドミノといった新しいポピュラー音楽(ロックンロール)が大人気で、イギリスでも若者には大いに受けた。ビートルズは62年に「ラブ・ミー・ドゥ」でデビュー、ビーチ・ボーイズの世界的大ヒット「サーフィン・U.S.A」は63年にリリースされているという、そういう昔話である。
ゾンビーズは64年にロンドンで行なわれたロックグループのコンテストで優勝し、デッカレコードと契約を結ぶ。デッカは63年にローリング・ストーンズと契約しアメリカで成功したことで、二匹目のドジョウを探していたのである。60年代の中頃、アメリカのヒットチャートは、アニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツ、デイブ・クラーク・ファイブ、キンクスらブリティッシュロック勢に席巻され、ブリティッシュ・インベイジョンと言われる社会現象が起こっていた。
64年にリリースしたゾンビーズの「シーズ・ノット・ゼア」もアメリカで大ヒット(全米2位、全英12位)、ロッド・アージェントの巧みなソングライティングと彼らの瀟洒なサウンドに注目が集まったのである。グループのメンバーはアージェントの他、ベースとヴォーカル、ソングライティングを担当するクリス・ホワイト、リードヴォーカリストのコリン・ブランストーン、ギタリストのポール・アトキンソン、ドラムのヒュー・グランディの5人で構成されている。
■アメリカでの活動とチャート低迷
ゾンビーズの核は、さまざまな音楽に長けたアージェントと、繊細なヴォーカルが印象的なコリン・ブランストーンとソングライティング、ヴォーカルも上手いクリス・ホワイトの3名にあり、基本的にはアージェントがグループの音楽監督も務めていたと見るべきだろう。「シーズ・ノット・ゼア」のヒットを受けて、65年にデビューアルバム『ビギン・ヒア』(イギリス盤。アメリカ盤は『ザ・ゾンビーズ』というタイトルで、イギリス盤の内容を一部差し替えている)をリリースする。アルバム発売に合わせてアメリカツアーを行なうと、全米チャートでアルバムは39位になるなど、ゾンビーズにとっては前途洋々たるスタートを切った。しかし、アルバムリリース後に出したシングルはどれもパッとせず、これ以降ヒットとは無縁の苦難の生活が始まる。
■ロック界の転機
65年になると、ボブ・ディランが『追憶のハイウェイ61』でフォークからフォークロックへの道筋を提示し、ビーチ・ボーイズ(というかブライアン・ウィルソン)は美しいメロディーを持つ完全無欠のアルバム『ペット・サウンズ』(‘66)を作り上げるなど、それまでのティーン向けのポップから、じっくり作品と向き合う音楽へとロックは変貌を遂げていく。そして、ビートルズは67年に『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』という大傑作をリリースし、ロック界は新たな段階を迎える時代へと突入する。
ゾンビーズのメンバーたちは、時代の切り替わりに立ち会うことで自分たちの音楽を見つめ直すことになる。この時期、彼らにヒット曲が生まれなかったこともあり、自分たちの立ち位置を見極める良いきっかけとなったかもしれない。67年にはデッカとの契約が切れ、新たにCBSレコードと契約する。しかし、しばらくヒット曲のないゾンビーズは期待されておらず、アルバムのレコーディング費用がかなり抑え込まれてしまう。そこで『サージェント・ペパーズ〜』のレコーディング機材(高価なメロトロン等)がまだ残っていたアビーロード・スタジオでメンバーのみで(経費のかかるプロデューサーも不在)のレコーディングがスタートする。
■本作『オデッセイ・アンド・オラクル』について
アージェントにとって、この作品がゾンビーズとしての最後のアルバムになるのではないかと感じていたと思う。なぜなら、ソングライターとしてのギャラが入るアージェントとホワイト以外のメンバーたちは生活ができないほど困窮しており、本作のレコーディング中に脱退を表明しているぐらいである。しかし、アージェントは諦めなかった。『サージェント・ペパーズ』と『ペット・サウンズ』を頭に叩き込んだ上で、セルフプロデュースで自分たちに今できる最上のことを最後にやろうとしたのだ。苦しみながらも録音は終了し、同時にこの時点でゾンビーズの解散も決定している。
やはり、本作からのシングルはどれも売れず、アルバムのリリースすら見送られることになった。助け舟を出したのが当時CBSのプロデューサーで、天才アーティストのアル・クーパーだ。当時の彼の発言は業界内外で大きな力を持っており、結局一度イギリスで失敗した「二人のシーズン(原題:Time Of The Season)」を69年になってアメリカで再リリースすると、あっと言う間にチャートを駆け上がり、3位まで上昇する。アル・クーパーがいなければ、おそらくお蔵入りしたであろうアルバムだが、本作は間違いなく傑作であり、ビートルズやブライアン・ウィルソンにも大きな影響を与えた作品なのである。ただ残念なのは、アルバムがリリースされた時にすでにゾンビーズは存在しなかった(ゾンビ化していたと言うべきか…)ことである。
収録曲は全部で12曲。駄曲はひとつもない。それどころか、何年聴き続けても飽きない魅力がある。豊潤で格調さえ感じられるメロディー、美しく編まれたコーラス、各々は主張こそしないがツボを押さえた演奏など、どれをとっても一級の仕上がりである。ひとつだけ難点があるとすれば、ジャケットに手書きで描かれたアルバムタイトルのオデッセイの綴りが間違っていることぐらいか。正しくは“Odyssey”なのだが、描かれているのは“Odessey”となっている。だからタイトルも『Odessey And Oracle』なのだ。
■本作リリース後のメンバーとその活動
中心メンバーのロッド・アージェントは自身の名前を冠したグループ、アージェントを結成し8枚のアルバムをリリースする。コリン・ブランストーンは保険会社に勤務した後、ソロアーティストとなり、通のリスナーに好まれるSSWとして活動する。ソロデビュー作の『1年間』(‘71)は名盤として今も語り継がれており、日本盤も何度かリリースされている。クリス・ホワイトはプロデューサーやソングライターとしてアージェントやブランストーンを支えている。ポール・アトキンソン(2004年に58歳で逝去)は音楽出版社でA&Rマンとして、ヒュー・グランディはコロンビアレコードのA&Rマンとしてそれぞれ勤務していた。
2008年には『オデッセイ・アンド・オラクル』40周年記念コンサートを行ないCD&DVDをリリース。昨年は念願のロックの殿堂入りを果たし、ブライアン・ウィルソンとゾンビーズのツアーで本作の曲を演奏するなど精力的に活動している。今年もツアーは予定されていたが、新型コロナウイルスの影響で現在は休止中である。
TEXT:河崎直人
アルバム『Odessey and Oracle』
1968年発表作品
<収録曲>
1. 独房44/Care of Cell 44
2. エミリーにバラを/A Rose for Emily
3. 彼去りし後には/Maybe After He’s Gone
4. ビーチウッド・パーク/Beechwood Park
5. ローソクの様に/Brief Candles
6. 夢やぶれて/Hung Up on a Dream
7. 変革/Changes
8. 私と彼女は/I Want Her, She Wants Me
9. 今日からスタート/This Will Be Our Year
10. ブッチャーズ・テイル/Butcher’s Tale (Western Front 1914)
11. フレンズ・オブ・マイン/Friends of Mine
12. ふたりのシーズン/Time of the Season
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