日本で最初のインディーズレーベルと言われる“URCレコード”の50周年記念プロジェクト。その第3弾としてはっぴいえんどの『LIVE ON STAGE』や遠藤賢司の『niyago』など7作品が発売されたが、今週はその中にラインナップされた金延幸子の『み空』を聴いてみた。渡辺満里奈やGRAPEVINEがその楽曲をカバーしたことを知っている方もいらっしゃるかもしれないが、本作発表後に渡米し、しばらく表立った活動をしていなかった人だけに、今となってはその存在を知る人は少なかろう。しかし、日本の音楽シーンに確かな足跡を残した、伝説中の伝説と言っていい女性シンガーソングライターである。
■もし〇〇〇が✖✖✖だったら…
“たられば”は禁物だとよくこのコラムで述べているけれども、やっぱり考えてしまう“歴史のIF”。“もし〇〇〇が✖✖✖だったら”というヤツである。昔から義経=チンギス・ハン説や天海=明智光秀説なんてものがあるのは、まさに“歴史のIF”が好きな証拠だろう。最近でも上杉謙信女性説を下地にした東村アキコの漫画『雪花の虎』が制作されたり、Philip Kindred Dickの小説『高い城の男』(原題:The Man in the High Castle)を原作としたドラマが制作・配信されたりしたことも記憶に新しいところで、もしかすると歴史好きならずとも興味を惹かれるネタなのではないかと思う。
上記にあるいくつかの“IF”のような一国の政治が改変されてしまうようなものじゃなくとも、各ジャンルに“もし〇〇〇が✖✖✖だったら”はたくさんあって、スポーツ界でもわりと用いられるネタではないかと思う。元祖“怪物”江川卓が1973年のドラフト会議で1位指名を受けた阪急ブレーブスに入団していたら…や、“レフティーモンスター”と呼ばれた小倉隆史が1996年のアトランタ五輪最終予選前に怪我をしなかったら…など、その幻の活躍を惜しむ声もたまに聞く。ちなみに、前者は江川卓の自伝『たかが江川されど江川』をもとにした漫画『実録たかされ』の中で作者の本宮ひろ志がそのようなことを描いているし、小倉隆史については金子達仁氏の著書『28年目のハーフタイム』にそれをうかがわせる件があったように記憶している。
競馬にもある。1番の馬が出遅れなかったらレースのペースがあんなに遅くなることはなかったのに…とかそういうことではなくて(そういうことも多々あるけれども)、代表的なところではテンポイントやサイレンススズカ、ホクトベガなど、あのまま元気で走ってくれていたら…と思わせる名馬も少なくない。競走馬の場合、引退後は種牡馬になったり繁殖入りしたりして、のちにその仔が走ることがあったことを考えると、余計にやり切れない思いになるのかもしれない。
エンタテインメント界も例外ではない。急逝、早逝のケースにそれを感じることが多いが、禁物と分かっていても、今、夏目雅子や松田優作がいたら…と思うこともあるし、Joaquin Phoenixが映画『ジョーカー』でオスカーを獲得したことで実兄のRiver Phoenixへの思いも馳せる。ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』がアジア映画でアカデミー作品賞を獲ったと聞けば、もし森田芳光だったら今の社会をどんなふうに切り取ったのかなと考えてしまう。
音楽業界で言えば、令和という新しい時代に尾崎豊や忌野清志郎は何を叫んでいただろうかとか、サブスクが当たり前となってきたシーンでhideがどんな楽しい仕掛けをしてくれただろうかとか、無粋とは知っていながら、やはり今は亡き人々の“たられば”を考えてしまう自分がいたりする。才能が有限でないことも分かってはいるはずでも、未知なるものへの興味は尽きない。ないものをねだりたくなるのも人情なのだ。
今回紹介する金延幸子も“たられば”を考えてしまうアーティストである。しかしながら、前述した方々とは少し趣が異なる。何より彼女はご存命である。昨年11月には東京でもライヴを開催しているし、イベントにも出演した上、欧州でもコンサートを行なっているという。そう書けば、事情を知らない方は“そこに何のIFが入る余地があるというのか?”と訝しく思うかもしれない。しかし、彼女の経歴を聞けば納得してくれるのではないだろうか。
彼女のデビューは1971年。同年7月にシングル「時にまかせて」を、1972年9月にアルバム『み空』をリリースしている。その後、米国人のロック評論家と結婚して渡米。その後、日本の音楽シーンに復帰したのは1994年だ。つまり、デビューしてから22年、約四半世紀の間、表舞台からは完全に姿を消している。ここまで書いても、“それが何か?”と思われる方も多かろう。実際、デビュー作を発表したあとでシーンからフェードアウトしてしまうアーティストはわりといるし、シングル「時にまかせて」はビクター音楽産業(現在のビクターエンタテインメント)からの発売であったが、アルバム『み空』は“日本で最初のインディーズレーベル”と言われるURC=アングラ・レコード・クラブ からのリリースである。
インディーズで1枚作品を発表してそのあとでいなくなるミュージシャン、バンドは今も掃いて捨てるほどいるわけで、それ自体が特筆すべきことではないことは説明するまでもなかろう。金延幸子の場合、当然ながら、その作品クオリティーからして“たられば”を考えてしまうのである。“もし金延幸子が『み空』以降も継続的に作品を出していたら、日本の音楽シーンは現在とその形を変えていたのではないか?”と──。
■大瀧詠一と細野晴臣とがプロデュース
デビュー作『み空』の内容に関してはそれぞれの見方もあるだろうから(そこについても、のちに触れるけれども)、まずデビュー前後の彼女を取り巻いていた状況を説明してみたい。その客観的事実だけでも彼女の偉大さというか、伝説っぷりが伝わるのではないかと思う。まず、ソロデビュー以前について。シンガーとしてのキャリアのスタートは、その後の“全日本フォークジャンボリー”などの野外コンサートのさきがけとも言えるイベント『第3回フォークキャンプ』に参加したことから始まる。1968年夏のことである。
そのイベントから派生した音楽ユニット“フォークキャンパーズ”にも加わった。このユニットには、中川五郎、藤村直樹、長野隆、西岡恭蔵らも参加していたという。1969年には、秘密結社○○教団(人類頭脳進化後退破滅破壊促進倶楽部)から愚と名前を替えたフォークバンドの一員として活動。愚の他のメンバーは中川イサト、瀬尾一三、松田幸一であった。(※愚の前身のグループ名については現状でそれを証明する資料が乏しいため、どれが本物なのか分からないので、ひとまず記しておいたことを予めご了承いただきたい)
そして、ソロデビュー。シングル「時にまかせて」は彼女自身の作詞作曲ではあるが、編曲は“CHELSEA”となっている。これは大瀧詠一の変名のひとつであり、氏はこの楽曲のプロデュースを担当している。これも後述することになるが、シングル「時にまかせて」はアルバム『み空』にも収録されているバージョンと大分アレンジが異なる。この辺はプロデューサーの個性の違いと見ることができるかもしれない。そのアルバム『み空』のプロデューサーは細野晴臣である。はっぴいえんどの正式解散が1972年なので、金延幸子はそれぞれが(かろうじて…と言うべきか)バンド在籍中に制作に携わったアーティストなのである。
ここまで登場した名前に幾人のレジェンドがいることにお気付きだろう。そのほとんどが現在の邦楽シーンを彩った──いや、形作ったと言ってもいい存在である。それがひとりやふたりならいざ知らず、これほど多くの人たちが関わっているのだから、金延幸子というアーティストのポテンシャルは十分にうかがえるのではないかと思う。
■ポップなメロディーに思いを巡らす
さてさて、これでその作品が、それこそ愚にもつかないものであったなら、“たられば”も何もあったものではないけれど、無論そうではない。正直に告白すると、筆者は今回初めて『み空』を聴かせてもらったのだが、流石に“1970年代前半の作品とは思えない”とは言わないまでも、漠然と想像する当時のフォークソングとは一線を画す印象である。個人的な印象であることを予めお断りしておくけれども、プロテストフォークともニューミュージック寄りの大衆的フォークソングとも異なる感じ。歌詞もメロディーも全体的に親しみやすく、それでいて洗練されたイメージである。
サウンドがアコギのアルペジオを中心にしているようなところがあるからか、カントリーであったりケルトであったりに近い印象があるものの、それらとポップスの融合…というとやや語弊があるかもしれないが、単純にジャンル分けできない感じではある。彼女は“女性シンガーソングライターの草分け的存在”と形容されているようであるが、確かにそれがいいように思う。少なくとも『み空』の時点ではフォークシンガーとも、ポップス歌手とも言い切れない気はする。
デビューシングル「時にまかせて」を大瀧詠一が、そのアルバム収録版を細野晴臣がプロデュースしたと前述したが、そのフォークシンガーともポップス歌手とも言い切れない感じは当時スタッフの間で顕在化しており、それが両プロデューサーによるアレンジの違いにも表れたのではなかったかと想像できる。大瀧版はバンドサウンドが生々しく、ロックに近い。
アルバム収録の細野版は若干テンポも緩い感じで、スライドギターもいい具合に鳴っているカントリー調。それぞれにいいところがあって甲乙付けがたく、大瀧、細野のそれぞれのセンスの良さと同時に、金延幸子の非凡さがうかがえるところではないかと思う(アルバム収録曲は「時にまかせて」を含めて、大瀧がプリプロでやっていたバージョンをもとにアレンジされたという説もあるが、そうだとしてもそれはそれで細野のセンスは良い証拠だろう)。
ただ、これがソロデビュー作でもあるだけに…と言うべきか、『み空』が完璧な作品かと言ったら、決してそういうことでもないと思う。メロディーも歌詞もいい。だが、それらの調和がとれているかと言ったら──これは私見であるとそれをしっかり前置きしておくけれども、そうでもないところが少しばかり気にかかるのである。
具体的に言おう。全編でいいメロディーを聴かせてくれるのだが、特にM1「み空」、M2「あなたから遠くへ」、M6「おまえのほしいのは何」、M8「雪が降れば (ようこさんにささげる)」、M9「道行き」辺りでは、とてもポップで、耳に残る歌メロを聴くことができる。これが《トゥル ル ル……》とか《パパパル パパプラルラ》とか《ラララ……》とか、すべてスキャットなのだ。それが悪いとは言わない。洋楽的に聴こえる効果もあったのだろうし、ここまで多いということはおそらく意識的にやっていたのだろう。
ただ、いずれも見事にメロディアスなので、(これもまた“たられば”であるが)“ここにいい歌詞が乗っていたら、また印象が変わったのだろう”とは思う。もちろん歌詞が乗ることでいい化学変化ばかりが起こるとは思わないけれども、本作の収録曲を見ればハマリのいい歌詞が多いので少なくとも改悪となることはなかろう。仮に彼女自身がそれを得意としていなかったとしたら、本作でもそれを試みているように外部からライターを招くこともできたと思う。『み空』の翌年にそれがいきなりできたかどうかは分からない。何よりもそれが本人とスタッフの望むところであったかどうかも分からないので、誠に勝手な話であるのだけれども、よりいい楽曲を創作する余地はあったはずである。それゆえに、『み空』以降、作品が滞ってしまったのは、一リスナーの立場から言わせてもらうと本当に残念ではある。
荒井由実がアルバム『ひこうき雲』を発売したのが1973年11月。中島みゆきがシングル「アザミ嬢のララバイ」でデビューしたのが1975年5月である。彼女たちを筆頭に1970年代半ばから女性シンガーソングライターが本格的に活躍し始めたわけだが、金延幸子の『み空』は上記作品よりやや早く発表された。そして、以後、彼女は長い間、音源をリリースすることがなかった。もし金延幸子が『み空』以降も継続的に作品を出していたら、日本の音楽シーンは現在とその形を変えていたのではないか──。栓なきことだが、『み空』を聴いた今となっては余計にその想像を禁じ得ない。
TEXT:帆苅智之
アルバム『み空』
1972年発表作品
<収録曲>
1. み空
2. あなたから遠くへ
3. かげろう
4. 時にまかせて
5. 空はふきげん 作曲:大瀧詠一
6. おまえのほしいのは何
7. 青い魚
8. 雪が降れば (ようこさんにささげる)
9. 道行き
10. はやぶさと私
11. 春一番の風は激しく
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