70年代中期にパンクロックが登場してから、数年後にはシンセサイザーの急速な発展によってエレクトロポップの時代を迎える。70年代末〜80年代初頭の洋楽と言えば、シンセを多用したディスコサウンドかテクノが全盛であった。しかし、パンクロックの精神は死んでおらず、ポストパンクのアーティストたちはインディーズの世界で泥臭く活動していたのである。76年にマンチェスターで結成されたジョイ・ディヴィジョンもまた、初期のパンクロックに影響されたグループだ。79年にリリースしたデビューアルバム『アンノウン・プレジャーズ』では暗鬱ながらもテンションの高い演奏を聴かせ、インディーズの新人にもかかわらず好セールスを記録した。今回取り上げる『クローサー』(’80)は彼らの2枚目のアルバムである。本作リリースの2カ月前、ヴォーカルのイアン・カーティスが自死するという衝撃的な事件がゆえに彼らは伝説になるのだが、イアンの心の内を曝け出すような歌詞と、人間が持つ負のイメージ(憂鬱、挫折、失敗、喪失、抑圧など)をサウンドで表現するその真摯さは、今でも圧倒的な存在感で迫ってくる。
■ジョイ・ディヴィジョンの結成と ゴシックロック
1976年、幼馴染のバーナード・サムナー(ギター)とピーター・フック(ベース)はセックス・ピストルズのライヴを観て、同じく旧友のテリー・メイソン(ドラム)とともに自分たちのグループを結成する。レコード店にヴォーカルの募集広告を貼り出すと、これまた旧知のイアン・カーティスが反応し、オーディションなしで選ばれることになった。当初はデビッド・ボウイの曲にちなんで、“ワルシャワ”というグループ名で活動している。メイソンはその後マネージャーとなり、翌年イアンと同じ学校に通う1年後輩のスティーブン・モリス(ドラム)がオーディションで加入、メンバー全員が揃う。しばらくはワルシャワとして活動するのだが、ロンドンによく知られたパンクロックバンドのワルシャワ・パクトがいたため、78年にグループ名をジョイ・ディヴィジョンに改めている。
79年、彼らはファクトリーレコードからデビューアルバム『アンノウン・プレジャーズ』をリリースする。プロデュースはマーティン・ハネットで、彼はシンセサイザーやエフェクターを巧みに使い、ジョイ・ディヴィジョンの特徴とも言える重々しい陰鬱感を増幅することでリスナーの心をとらえた。結果は好セールスとなるのだが、実際のライヴ時の音はもっと荒削りでダイナミックであったため、リリース当初はメンバーから不満の声が上がっていた。グループ結成30周年記念としてリリースされた『アンノウン・プレジャーズ(コレクターズ・エディション)』のディスク2に収録された79年当時のライヴを聴くと、そのあたりの葛藤はよく分かる。スタジオ録音では、ライヴの熱気を抑えるような加工がされているのである。後年、ハネット独特の耽美的感覚をメンバーも理解したようだ。
この『アンノウン・プレジャーズ』の特徴あるゴシック的サウンドは、キュアー、バウハウス、マガジン、コクトー・トゥインズなどに大きな影響を与え、以降ゴシックロックというポストパンクの大きな流れのひとつを作るのである。
■イアン・カーティスとその死
イアン・カーティスは、デビッド・ボウイ、ルー・リード、ジム・モリソンに憧れ、セックス・ピストルズのライヴを観てロックの世界に飛び込んでいる。彼の声質は低く、装飾的なテクニックは使わない。ルー・リードやジム・モリソンを範にし、等身大の自分をそのまま提示しているようなヴォーカリストである。彼の生み出す歌詞は抽象的かつ暗鬱で、のちに彼の妻のデボラ・カーティスはイアンがサルトルやカフカ、ニーチェらの本を読んでいたと回想しているように、読書好きであったがために文学的表現が身についていたのだろう。歌詞は抽象的でどんな解釈もできるというのがイアンの自論で、ジョイ・ディヴィジョンのオリジナルアルバムに歌詞を載せないのもイアンのこだわりのひとつであった。
イアンは死ぬまで鬱病とてんかんに悩まされ続けた。てんかんの発作は『アンノウン・プレジャーズ』の成功によるツアーなどで、不規則な生活が続いたことがきっかけで頻発するようになっていた。1980年1月のヨーロッパツアーでは数回のてんかん発作を起こし、聴衆はそれを彼のパフォーマンスだと勘違いし熱狂する者もいたのだが、イアン自身は発作が起きるたびに自己嫌悪に苛まれていたようである。
グループのメンバーはイアンの身体のことを心配していたものの、ツアーのスケジュール等もあり、どうすることもできずにいた。80年4月、てんかんの薬を過剰摂取してイアンは自殺を図っている。そんなこともあって、この月は何回かツアーをキャンセルすることになった。デビュー前の19歳で結婚した高校の同級生デボラとの関係もうまくいかなくなっており、口論は絶えなかった。そのストレスや病気の苦しみもあったのだろうが、5月18日の早朝に自宅で首を吊ってイアン・カーティスは23歳の生涯を閉じた。
*イアン・カーティスについては、ウィキペディアに詳しく紹介されているので、興味のある人はぜひ読んでみてほしい。素晴らしい内容である。
彼の死後、6月にはシングル「ラヴ・ウィル・テア・アス・アパート」がリリースされるのだが、この曲はジョイ・ディヴィジョンの最大のヒット曲となっただけでなく、ロック史上に残る名曲のひとつとしても知られ、多くのカバーを生んでいる。なお、この曲にはミュージックビデオが残っており、イアンの死の3週間前の4月25日に録画されている。ビデオを撮影したのはバンド自身であり、イアン在籍時のジョイ・ディヴィジョンとしては最後の映像作品となった(当時、まだMTVは存在していない)。
■本作『クローサー』について
そして、同年7月にリリースされたのが、イアンの遺作となる本作『クローサー』だ。録音は1月のヨーロッパツアーの後の3月に行なわれた(前掲の「ラヴ・ウィル・テア・アス・アパート」も同様)。この時期、すでにイアンの体調はすぐれず、重度のてんかんに加え鬱病も進行していたので、その心情がアルバム全編を貫くサウンドに大きな影を落としている。
収録曲は全部で9曲。前作同様、ハネットがプロデューサーを務めている。サウンドは前作と比べるとよりシンプルになり、その分イアンのヴォーカルが際立っている。パンクロックが外への怒りを表現したものだとするなら、ポストパンクとしての本作は自分自身の内面と対峙したものであり、暗鬱で儚げだ。パンクロッカーを自負していた彼らにとって、このアルバムのある種の静謐さに違和感を持ったかもしれない。しかし、ドアーズの「ジ・エンド」がジム・モリソンというアーティストを描き切ったように、本作『クローサー』はイアン・カーティスという人物を見事に浮かび上がらせている。パンクであろうがサイケデリックであろうが、そんなことは関係なく、若者の普遍的な心情を炙り出した本作の哀感は、時代を超えて聴く者に訴え掛けるのである。本作はジャケットデザインも含め、流行に左右されないロック史上に残る傑作のひとつである。
TEXT:河崎直人
アルバム『Closer』
1980年発表作品
<収録曲>
1. アトロシティ・エクシビション/Atrocity Exhibition
2. アイソレーション/Isolation
3. パスオーヴァー/Passover
4. コロニー/Colony
5. エイ・ミーンズ・トゥ・アン・エンド/A Means to an End
6. ハート・アンド・ソウル/Heart and Soul
7. 24時間/Twenty Four Hours
8. ジ・エターナル/The Eternal
9. デケイズ/Decades
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