キンクスと言えば「ユー・リアリー・ガット・ミー」「オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト」などに代表される所謂“キンキーサウンド”ばかりが引き合いに出されるが、彼らの魅力は初期のシングル曲だけにとどまらない。やさしいサウンド作りの『ビレッジ・グリーン・プリザベーション・ソサエティ』(’68)ではコンセプトアルバムの概念を提示し、71年の『マスウェル・ヒルビリーズ』では泥臭いスワンプ・テイストを感じさせていた。また、アリスタ時代の『スリープ・ウォーカー』(’79)で見せたソリッドで力強いサウンドなど、ファンそっちのけで我が道を行くところがキンクスのキンクスたる所以なのである。今回取り上げる『この世はすべてショー・ビジネス(原題:Everybody’s in Show-Biz)』は『マスウェル・ヒルビリーズ』に続くRCAでの2作目で、LP時代は2枚組でリリースされた。1枚目はスタジオ録音、2枚目はライヴ録音という変則スタイルであるが、最も脂の乗った時期の作品だけに素晴らしいアルバムになっている。特にキンクス一世一代の名曲「セルロイドの英雄(原題:Celluloid Heroes)」が収録されているので、未聴の人はぜひ聴いてみてください。
■人種差別とアメリカのポピュラー音楽
ロックンロールが誕生した1950年代後半以降のアメリカでは、それまで白人と黒人に分かれていたポピュラー音楽のジャンルが徐々にクロスオーバーしていくことになる。もちろん、それ以前にもヨーロッパ系などの移民が多いルイジアナやテキサスなどの地域では音楽ジャンルのクロスオーバー化は進んでいたが、インターネットがない時代だけに情報の伝達に時間がかかったことや、人種差別の問題もあって地元レベルでのローカルヒットどまりであった。
1964年に人種差別の撤廃を盛り込んだ公民権法が成立する時(もちろん、南部などでは法律が制定された後も差別がなくなるわけではなかったが…)まで、黒人アーティスト(主にブルースとR&B)は黒人リスナーのみが、白人アーティスト(主にカントリーとフォーク)は白人リスナーのみがフォローするという図式が成り立っていた。黒人音楽に大ヒット曲が出れば、白人がそれをカバーし白人リスナーに届けるということも行なわれていた。黒人アーティストたちはそれらの行為を白人による文化の搾取だと考えていたから、その逆(白人のヒット曲を黒人アーティストがカバーする)は非常に少なかった。
しかし、黒人のように歌うエルヴィス・プレスリーをはじめ、ジョニー・キャッシュ、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンス、チャーリー・リッチ(要するに、52年に設立されたサン・レコード所属のアーティストたち)の登場で、状況は大きく変わることになる。彼らの存在によって、白人が黒人のR&Bやブルースに似た音楽を楽しめるようになったのである。スタックスやゴールドワックス、サウンドステージセブンといった南部の黒人向けレーベルでは、黒人と白人が一緒に音楽(サザンソウルなど)を作っていたが、それらは一般の音楽シーンから見ると例外的なものであったと言えるかもしれない。
そして、黒人側から人種の壁を乗り越えたのは、R&B界の巨人レイ・チャールズだ。1962年に全曲カントリー曲のアルバム『モダン・サウンズ・イン・カントリー&ウエスタン・ミュージック』のVolume 1とVolume 2の2枚をリリースし、Volume 1は全米1位を獲得する。この作品の成功のおかげで、その数年後にはブルーアイド・ソウルと呼ばれたライチャス・ブラザーズやラスカルズが登場し、アメリカのポピュラー音楽界はジャンルのクロスオーバーが進んでいく。
ただ、この人種差別政策によってアメリカのポピュラー音楽の進歩は著しく遅れることになり、イギリスの若いアーティストたちがアメリカのヒットチャートを賑わす結果となった。
■第一次ブリティッシュ・インベイジョン
人種差別の問題がアメリカとは比べ物にならないほど小さいイギリスでは、すでに50年代にはアレクシス・コーナーらが中心となり、黒人のブルースやR&Bを研究し、日夜ジャムセッションが繰り広げられ、新たな若者中心のポピュラー音楽が生み出されようとしていた。60年代初頭にはボブ・ディランやプレスリーの登場が引き金となり、イギリスの若者たちはアメリカの黒人音楽をモチーフにした新しいポピュラー音楽(ロック)を作り出すことに成功する。その少し前の50年代には、大きなムーブメントとなったロニー・ドネガンを中心としたスキッフルブームが到来する。スキッフルはジャグバンド、フォーク、カントリー、ブルーグラス、ロカビリーなどを包括した音楽で、60年初頭にデビューしたイギリスのロックグループは多かれ少なかれ、スキッフルの流行から音楽活動を始めている。62年にはスキッフルバンドを母体としたビートルズがデビュー、斬新なオリジナル曲を武器に、あっと言う間に世界的なグループとなっていく。
続いて、ローリング・ストーンズ、マンフレッド・マン、デイブ・クラーク・ファイブ、アニマルズら、R&Bやブルースに根差した新しいグループが次々に生まれ、60年代中期には彼らの音楽は本場アメリカを席巻し、気づけばアメリカのヒットチャートがイギリスのグループに独占されてしまっていた。これが第一次ブリティッシュ・インベイジョンと呼ばれる現象で、中でもキンクスの3rdシングル「ユー・リアリー・ガット・ミー」(’64)は、他のグループとは異質のサウンドを持っていた。シンプルなリフ(パワーコード)を繰り返す荒削りなサウンドはヘヴィメタルの始祖と言われているが、世界最初期のガレージバンドやパンクロックでもあった。この曲は全英1位まで登り詰め、全米でも7位を獲得、キンクスの名前は世界的に知られることになる。
■初期のキンクス
キンクスはレイとデイブのデイヴィス兄弟、ミック・エイヴォリー、ピート・クェイフの4人組で64年にデビューした。シングルを2枚リリースするも売れず、彼らが所属していたパイ・レコードは3枚目のシングルがヒットしなければ解雇も考えていた。しかし、3rdシングルが例の「ユー・リアリー・ガット・ミー」であったというわけだ。実は「ユー・リアリー・ガット・ミー」は録音が完了していたにもかかわらず、レイ・デイヴィスはその出来栄えに納得できなかった。レコード会社に再録音を願い出たが断わられたため、プロデューサーにスタジオのレンタル費用を立て替えてもらい再録音したという経緯がある。おそらく彼には新しい音楽を作り出す動物的勘とセンスが備わっていたのだろう。でなければ、取り立ててメロディーがきれいなわけでもないこの曲にこだわる理由が見当たらない。この曲でロックの新しいスタイルを築き上げたキンクスであるが、続く4thシングル「オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト」(全英2位、全米7位)、5thシングル「タイアード・オブ・ウェイティング・フォー・ユー」(全英1位、全米6位)が立て続けに大ヒットし、彼らはスターとなった。
しかし、リーダーのレイ・デイヴィスはパワーコードを使った“キンキーサウンド”のみに胡坐をかくような人間ではなく、時にはファンを置き去りにしても貪欲に新しい試みを続けていく。ヒットした「ユー・リアリー・ガット・ミー」「オール・デイ・アンド・オール・オブ・ザ・ナイト」を含むデビューアルバム『キンクス』(‘64)と、「タイアード・オブ・ウェイティング・フォー・ユー」を含む2nd『カインダ・キンクス』(’65)は“キンキーサウンド”中心の組み立てであるが、3rd作『キンク・コントラヴァーシー』(‘65)ではフォークロックやポップロック的なスタイルの曲が一気に増え、アルバムの完成度が高くなっている。このアルバムからはニッキー・ホプキンスがキーボードで参加しており、演奏の幅も広がった。
■アルバムの完成度は高いが チャートでは苦戦
66年の4thアルバム『フェイス・トゥ・フェイス』は、ポップロックへと舵を切りつつアルバム全体の構成を考えた作品になっており、楽曲の出来も良くキンクス初期の代表作と言えるかもしれない。ただ、チャートでは苦戦し始め(全英12位、全米47位)ていて、それはサウンドの変化が影響を及ぼしていると思われる。
67年の5thアルバム『サムシング・エルス・バイ・ザ・キンクス』はニッキー・ホプキンスの出番が増え、少しプログレの香りもする作品となった。凝ったメロディーを持つ曲が多く、キンクスの代表曲のひとつである名曲「ウォータールー・サンセット」(全英2位)が収録されている。良いアルバムだと思うが、チャートでは振るわなかった(全英35位、全米153位)。以降、『ライヴ・アット・ケルヴィンホール』(‘67)、『ビレッジ・グリーン・プリザベーション・ソサエティ』(’68)、『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡(原題:Arthur (Or the Decline and Fall of the British Empire)))』(‘69)、『ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第一回戦(原題:Lola versus Powerman and the Moneygoround, Part One)』(’70)、サントラ『パーシー』(‘71)と精力的にアルバムをリリースするもののセールス面での不調は続き、キンクスは所属していたパイ・レコードと継続契約をせず、大手のRCAと新たに契約する。
■RCA移籍後、会心の一作 『マスウェル・ヒルビリーズ』
71年、RCAからリリースした『マスウェル・ヒルビリーズ』は、肩の力が抜けたアーシーな傑作となった。ザ・バンドのフリークとして知られるブリンズリー・シュウォーツやマクギネス・フリントなど、パブで活躍する英国スワンプロックのスタイルを踏襲したこのアルバムの泥臭いサウンドはイギリスのロックシーンに影響を与え、ジョー・コッカー、ジェフ・ベック・グループ、ストーンズ、クラプトン(デレク&ザ・ドミノス)などと並んで、70年代初頭の英ロックシーンをリードすることになる。
■本作『この世はすべて ショービジネス』について
アメリカへの憧れを表した『マスウェル・ヒルビリーズ』はキンクスを代表する傑作だと僕は思うが、またもやチャートには見放される結果となる。これまでの彼ら(というかレイ・デイヴィス)の動向からすると、チャートの結果が良かろうが悪かろうが、自分の納得するものができればそれで良しと考えているのだろう。あくまでも我が道を行くというスタンスは潔いと思う。
そして、次にリリースされたのが本作『この世はすべてショー・ビジネス』で、前述したようにスタジオ録音とライヴ録音を合体させた変則的な2枚組になっている。スタジオサイドは前作同様にザ・バンドとアメリカの憧れを形にしている。スライドギターはリトル・フィートのローウェル・ジョージを手本にしており、ホーンセクションはザ・バンドの『ロック・オブ・エイジズ』風だ。とはいえ模倣ではなく、しっかりキンクスのカラーが出ているのだからレイ・デイヴィスは流石である。スタジオ録音は全部で10曲、全て文句なしの仕上がりだ。そして、最後に収められているのがキンクス稀代の名曲「セルロイドの英雄」である。この曲はキンクスを代表するだけでなく、ロック史に残る傑作ではないだろうか。
ライヴサイドはスタジオサイドのレコーディング中にカーネギーホールで行なわれたライヴを収録、同時期であるだけにサウンドの違和感はない。スタジオサイドよりはジャズ(ヴォードヴィル風)色が濃いが、ノスタルジックで円熟したサウンドが聴ける。ハリー・ベラフォンテのカバー「バナナ・ボート・ソング」はご愛嬌だが、これはスキッフルブームの名残かもしれない。ライヴサイドの最後はキンクスの代表曲のひとつ「ローラ」で、観客が大合唱するだけで終わるのが少々物足りない気もする。ここは「タイアード・オブ・ウェイティング・フォー・ユー」あたりで締め括ってほしかったが、“キンキーサウンド”の頃とは違うグループだといってもおかしくないので、これはまあ仕方ないところかもしれない。
TEXT:河崎直人
アルバム『Everybody’s in Show-Biz』
1972年発表作品
<スタジオ>
1. 新しい日がやってくる/Here Comes Yet Another Day
2. マキシマム・コンサンプション/Maximum Consumption
3. 非現実的現実/Unreal Reality
4. ホット・ポテト/Hot Potatoes
5. ホテルに座って/Sitting in My Hotel
6. モーターウェイ/Motorway
7. ユー・ドント・ノウ・マイ・ネーム/You Don’t Know My Name
8. スーパーソニック・ロケット・シップ/Supersonic Rocket Ship
9. 陽の当たる側をご覧/Look a Little on the Sunny Side
10. セルロイドの英雄/Celluloid Heroes
<ライヴ>
11. トップ・オブ・ザ・ポップス/Top of the Pops
12. ブレインウォッシュド/Brainwashed
13. ミスター・ワンダフル/Mr. Wonderful (Bock, Davies, Holofcener, Weiss)
14. パラノイア・ブルース/Acute Schizophrenia Paranoia Blues
15. ホリデイ/Holiday
16. マスウェル・ヒルビリー/Muswell Hillbilly
17. アルコール/Alcohol
18. バナナ・ボート・ソング/Banana Boat Song (Arkin, Attaway, Burgie, Carey)
19. 骨と皮/Skin and Bone
20. ベイビー・フェイス/Baby Face (Akst, Davis)
21. ローラ/Lola
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