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『愛していると云ってくれ』から滲み出ている中島みゆきにしか成し得ない問答無用の迫力

1月8日に約2年振り、通算43枚目のオリジナルアルバム『CONTRALTO』がリリースされたとあって、今週は中島みゆきの過去作をピックアップする。これまで43作品もアルバムを発表してきたアーティストであって、当コラムにとっては大ネタ中の大ネタなだけにどれにしようか迷ったが、担当編集者から「そりゃあ、「世情」が入ったアルバムでしょう!」と力強いメールが届いた。やはりアラフィフ(アラカンか?)にとって「世情」は思い入れが強いようだ。今週はその熱き想いに乗って、『愛していると云ってくれ』を解説してみた。

■1970年代中島みゆきの迫力

このインパクトは間違いなく唯一無二だ。本作の他、「うらみ・ます」で始まる『生きていてもいいですか』(1980年)辺りもそうだけれど、1970年代の中島みゆき作品は冒頭から圧倒的な迫力に満ち満ちている。作品全体を通して見ても、情念が大幅にはみ出して迫ってくるような印象がある。

筆者は彼女の作品を具に聴いてきたわけではないので軽々にそう分析するのは少し危険かもしれないけれど、1990年代以降の彼女の代表曲と比べるとその違いが分かると思う。《縦の糸はあなた 横の糸は私/織りなす布は いつか誰かを/暖めうるかもしれない》(「糸」)といった文字通りの暖かさ≒温かさを感じさせるナンバーであったり、《つばめよ高い空から教えてよ 地上の星を/つばめよ地上の星は今 何処にあるのだろう》(「地上の星」)という、まさしく時代や社会を鳥瞰した内容の楽曲とは、明らかにその方向性が異なっている。「空と君のあいだに」と比較すると、《僕は悪にでもなる》というフレーズのインパクトや、《君の心がわかる、とたやすく誓える男に/なぜ女はついてゆくのだろう そして泣くのだろう》辺りの物語性は過去作に近いものが感じられるが、そこに通底しているのはやはり包容力といったものだろう。

一方、『愛していると云ってくれ』にあるのは、ほぼ真情の吐露だ。しかも、そのほとんどが一般的に負の感情と呼ばれるものである。それゆえに…だろうか、聴き手の感情を問答無用に揺さぶってくる。人によっては、揺すられるという生易しいものではなく、気持ちを震わされるように感じる人もいるだろう。息巻くように爆音を鳴らすハードロックやパンク、あるいは攻撃的な言葉を羅列するヒップホップなど、そこで感情を爆発させるような音楽はいろいろあるけれども、この頃の中島みゆきと比べるとそれらも何だかやさしい気さえしてくる。1970年代の中島みゆき作品ほどに聴く人の奥深いところへ訴えてくる音楽はそうないだろう。問答無用に唯一無二だと思う。

■アルバムはモノローグから始まる

『愛していると云ってくれ』は1曲目「「元気ですか」」から相当に強烈だ。César Franckのオルガン独奏曲「前奏曲、フーガと変奏曲」をバックにした独白で始まる。もちろんモノローグ自体は突飛なスタイルではないし、アルバム作品のオープニングとしては珍しいものでもない。強烈なのは《「元気ですか」と/電話をかけました》から始まるその内容である。ここに全文を掲載したいくらいなのだが、結構長文になるので流石にそれはあからさまな手抜きになるだろうから、主だったところだけを以下に抜粋してみる。

《皮肉のつもり 嫌がらせのつもり/いやな私……/あいつに 嫌われるの 当り前》《あいつ言ったでしょう 私のこと/うるさい女って 言ったでしょう》《……何を望んでいるの あたし/あの女もいつか/飽きられることを!?》《ほんとは/「そこにいる あいつを 電話に出して」/って言いたいのよ/……/……》《でも今夜は 私 泣くと思います/うらやましくて》(M1「「元気ですか」」)。

友人のところへ電話をかける主人公。その友人は元カレの今カノか、もしくは、友人は主人公が片思いしていた彼と行き合っていて、しかも、その友人は主人公にそのことを知らせていないようだ。そんな状況の中、主人公は延々と自らの心情を語っていく。敗北感、劣等感、屈辱、後悔、未練、虚勢、悲哀、羨望…決して前向きとは言えない感情がどんどん露呈していき、それらが綯い交ぜになっていく。純文学的…とは言いすぎかもしれないが、ここまで包み隠すことなく、ストレートに感情が漏れ出す感じは芸術的と言っていいと思う。メロディーに乗せるのではなく、朗読というのもいい。生々しさが増していると思う。というのも、中島みゆきの声は基本的にはやや低めだが、だからと言って低め一辺倒ではなく、中音から高音へもかなり動く。しかも、独特の揺らぎがあって──こんな言い方は変だろうけど、声の音域と揺らぎのオンオフとの組み合わせによって、さまざまな感情表現が可能のように思う。この辺は彼女のラジオパーソナリティーとしてのアドバンテージにもつながる話でもあろうが、地声だけで十分に魅力的であり、説得力も高いのである。M1「「元気ですか」」が朗読であることは、アルバムの世界観に入り込ませるにおいてばっちりの掴みと言える。

そのあとも、後ろ向きのつるべ打ち…とまでは言わないまでも、これまた前向きと受け取るにはなかなか困難な物語世界が広がっていく。以下、ザっと引用する。

《ひとの不幸を 祈るようにだけは/なりたくないと願ってきたが/今夜 おまえの幸せぶりが/風に追われる 私の胸に痛すぎる》《怜子 あいつは誰と居ても/淋しそうな男だった/おまえとならば あうんだね》(M2「怜子」)。

《途に倒れて だれかの名を/呼び続けたことが ありますか》《恋の終わりは いつもいつも/立ち去る者だけが 美しい/残されて 戸惑う者たちは/追いかけて 焦がれて 泣き狂う》(M3「わかれうた」)。

《海鳴りよ 海鳴りよ/今日も また お前と 私が 残ったね》《見てごらん 今歩いてゆく/あんな ふたりを 昔みたね/そして 今日は 明日は 誰が/私の ねじを 巻いてくれるだろう》(M4「海鳴り」)。

《あたしが出した手紙の束を返してよ/誰かと二人で読むのはやめてよ/放り出された昔を胸に抱えたら/見慣れた夜道を走って帰る》《化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど/今夜死んでもいいから きれいになりたい/こんなことなら あいつを捨てなきゃよかったと/最後の最後に あんたに思われたい》(M5「化粧」)。

《ねえ ミルク またふられたわ》《うまくは いかないわね/今度はと 思ったんだけどな》《なんで あんなに あたしたち 二人とも/意地を 張りあったのかしらね/ミルク もう 32/あたしたち ずっと このままね》(M6「ミルク32」)。

《忘れます 忘れます/あんたが好きだったって こともね/忘れます 忘れます/あたしが生きていたって こともね》(M7「あほう鳥」)。

《ギターは やめたんだ 食って いけないもんな と/それきり 火を見ている》《コートの衿を立てて あたしは仕事場へ向かう/指先も 衿もとも 冷たい/今夜は どんなに メイジャーの歌を弾いても/しめっぽい 音を ギターは 出すだろう》(M8「おまえの家」)。

“後ろ向きのつるべ打ち…とまでは言わないまでも”と言ったものの、こうして実際にそれっぽいところだけを抜き出してつるべ打ちすると、完全に後ろ向き一辺倒となってしまうわけで、何かもう、すごいとしか言いようがない(M6「ミルク32」はそこまで後ろ向きな内容ではないと思うのだが…)。M7「あほう鳥」辺りは、“何もそこまで考えなくとも…”と思わず突っ込みたくほどである。

■豪華演奏陣が醸し出す力強さ

ただ、そこは音楽=“音を楽しむ”というだけのことはある。実際に聴いてみるとそこまでオール後ろ向きである印象はない。前向きだとは言えないけれども、暗黒世界に引きずり込まれていくような圧迫感を、少なくとも筆者は感じなかった。それはもちろん言葉が音符に乗っているからであるが、サウンド面によるところも大きいと思われる。その点では、M3「わかれうた」が分かりやすいだろうか。メロディーに明るさはほとんどないと言っていいけれども、印象的な♪ズンチャズンチャ♪という2ビートのギターがどこか牧歌的というか、ちょっとカントリーっぽい雰囲気を出していることで、《途に倒れて だれかの名を/呼び続けたことが ありますか》という衝撃の台詞をやや薄めてくれているような気がする。もし、あれがM1「「元気ですか」」同様にクラシック音楽をバックにしたモノローグであったとしたら、たぶん3曲目で聴くことを止めるだろうし、それ以前にM3「わかれうた」がシングル曲として自身初のチャート1位を獲得することはなかったのではないだろうか。この楽曲は、どこかノスタルジックなサウンドと、淡々としているからこそ分かりやすいメロディラインがあったからこそ、大衆に浸透したのであろう。

それ以外の楽曲にしても、どれも基本的にメロディはフォーキーなのだけど、M2「怜子」、M5「化粧」、M7「あほう鳥」はロック色、M4「海鳴り」、M6「ミルク32」、M8「おまえの家」はブルース色があると思う。もろに8ビートだとか、もろにブルーノートスケールがあるというわけではないけれども、楽器のアンサンブルにそれらが感じられる気がするのである。リズム隊が入っているものには躍動感があり、バックの音数が少ないものでもとてもエモーショナルだ。それも本作の参加ミュージシャンの顔触れを見て納得。つのだひろ(Dr)、後藤次利(Ba)、増田俊郎(Gu)、坂本龍一(Pf)、斉藤ノブ(Per)──。そりゃあ、そのサウンドに躍動感がないわけがないし、どう演奏してもエモーショナルになるであろう。楽曲にある力強さを彼らが余計に注入しているようでもある。アルバムの世界観が後ろ向き一辺倒にならないというか、暗黒世界に引きずり込まれるようにならないのは、こうした背景もあると思われる。

■ラストの「世情」をどう読む?

さて、そのアルバム『愛していると云ってくれ』はラストM9「世情」で締め括られるのだが、ご存知の方はご存知の通り、この楽曲がM1~8とは打って変わって、とらえどころがないのである。いや、メロディーは立っているし、合唱が重ねられてアルバムのフィナーレに相応しい迫力があるのだけれども、どう受け取っていいのかまったく分からない。一応、歌詞を以下に記しておく。

《世の中はいつも 変わっているから/頑固者だけが 悲しい思いをする/変わらないものを 何かにたとえて/その度崩れちゃ そいつのせいにする》《世の中は とても 臆病な猫だから/他愛のない嘘を いつもついている/包帯のような嘘を 見破ることで/学者は世間を 見たような気になる》《シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく/変わらない夢を 流れに求めて/時の流れを止めて 変わらない夢を/見たがる者たちと 戦うため》(M9「世情」)。

《シュプレヒコール》という言葉から学生運動をモチーフにしているのではないかと言われているようだが、作者である中島本人はこれがどういう内容であるのか一切語っていないのだから、何とも言いようがない。1981年のTVドラマ『3年B組金八先生』の劇中歌で使用されたことでその物語に引っ張られたのだろうか、反抗の敗北を綴ったものだという意見もあるようだし、そこからさらに進んで、二項対立を歌ったものだという見解もあるようだ。それらも真実かどうか分からない。筆者も一応考えてはみたが、よく分からないので考えることを止めた。ただ、ひとつ分かることは、難解であるがゆえに聴いた人はこの歌詞の意味を考えるではないかということだ。聴き流す人がいない…とは言わないが、M8までの楽曲はそこにある物語は比較的分かりやすいだけに、“おや?”と思う人が多いのではなかろうかと思う。まぁ、その辺は筆者の私見ではあろうけれども、この『愛していると云ってくれ』がM9「世情」で終わっていることで不思議な余韻を残しているのは間違いないのではなかろうか。そんなアルバムはそうない気はする。けだし名盤と言うべきであろう。

TEXT:帆苅智之

アルバム『愛していると云ってくれ』

1978年発表作品

<収録曲>

1.「元気ですか」

2.怜子

3.わかれうた

4.海鳴り

5.化粧

6.ミルク32

7.あほう鳥

8.おまえの家

9.世情

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