12月27日にEX THEATER ROPPONGIにおいて、LAZYの『宇宙船地球号』発売40周年を記念したバンド史上初の完全再現ライヴが開催される。当然のことと言うべきか、公演チケットは発売日に全券種が完売。その人気が今もまったく衰えていないところを見せつけてくれた。当コラムでは、その『宇宙船地球号』とはどんなアルバムだったのか、そして、それを制作したLAZYとはそもそもどんなバンドであったのかを改めて振り返ってみたい。
■意に反したアイドルバンド期
1977年7月25日にシングル「Hey! I Love You!」でデビューして、正式に解散したのが1981年5月31日というから、LAZYの最初のメジャー期での活動は4年に満たなかったことになる。まったくもって鳴かず飛ばずのバンドであったなら4年間でも随分と長く活動したもんだなとなるところだが、1978年2月に発売した3rdシングル「赤頭巾ちゃん御用心」はシングルチャート32位で、セールスは20万枚を超えたというから、デビューから半年の新人バンドとしては大健闘──いや、成功したと言っていい結果を出しているわけで、4年に満たない活動期間というのは如何にも短い。彼らのディスコグラフィーを見ると、その間、シングル12作、アルバム7作(内ライヴ盤2作)を発表と多作ではあったし、それもそれ相応にリスナー、ファンが付いてていた証拠ではあろう。それゆえに“どうしてもう少し活動できなかったのか?”と勢い思いがちだが、それは現代の物差しで測った場合のこと。日本のロック黎明期だったと言える1970年代後半においては、事はそう簡単ではなかったようだ。
LAZYの結成は1973年。小学生の頃からの幼なじみであった影山ヒロノブ(Vo)、高崎 晃(Gu)、田中宏幸(Ba)が中学校時代に結成したバンドを母体に、井上俊次(Key)、樋口宗孝(Dr)が加わった格好だ。バンド名はDeep Purpleのアルバム『Machine Head』に収録されている楽曲のタイトルから取ったものだという。その界隈では説明不要なインスト曲であり、好事家がその名を聞けばバンドの指向は明白であっただろう。デビューのきっかけもテレビ番組でDeep Purpleの「BURN」を演奏したことだそうで、彼らが目指したところはバリバリのHR/HMバンドであったことは疑いようがない。しかし、LAZYは彼らのやりたい方向性ですんなりとデビューできたわけではなかった。スタッフは彼らに、バンドはバンドでもDeep Purpleではなく、Bay City Rollersの方向を促したのである。その頃のジャケ写やアー写を見れば一目瞭然。メンバー5人が同じコスチュームに身を包み、カメラ目線で微笑んでいるものばかりだ。所謂アイドルとして売り出されたのである。
その楽曲はプロの作家の手によるものがほとんどであった。中には松任谷由実や杉真理といったポップスフィールドのアーティストが携わったナンバーもあるにはあったが、作家陣の中心は、山口百恵やピンク・レディーのヒット曲を数多く手がけた都倉俊一氏。当時、都倉氏は最大のヒットメイカーではあったので、逆に言えばLAZYがレコード会社や事務所からいかにも期待されていたかが分かろうというものだが、最初期においてメンバーが作った楽曲が音源化されることもなければ、彼らが望んでいたであろうHR/HM寄りの楽曲が提供されることもなかった。
当時はそれも無理からぬ話ではあっただろう。LAZYの出現以前、1960年代半ば~後半に一大ブームとなったグループサウンズにおいても、レコード化される楽曲は職業作家が手掛けたものばかり。1970年代後半でもまだまだその考え方が支配的であったのである。しかも、LAZYのメンバーは当時10代。大人たちの意向に立てつくことなどできなかったであろうと想像できる。5人にはそれぞれニックネームも付けられた。影山=Michell(ミッシェル)、高崎=Suzy(スージー)、田中=Funny(ファニー)、樋口=Davy(デイビー)、井上=Pocky(ポッキー)。音源制作、コンサート活動のみならず、テレビ、ラジオへの出演、所謂芸能活動も行なった。2017年11月のOKMusicサイトのLAZYのインタビューで、影山、高崎、井上の3名が当時のことを笑い話として述懐している。彼らの苦心、苦労が偲ばれると共に、当時の音楽シーンがまったく成熟していなかったことを示すエピソードが綴られているので、是非そちらもお読みいただきたい。デビューはしたものの、それが彼らの意に反したかたちであったことがうかがえる。
■満を持してのヘヴィメタル宣言
だが、そんな状況下にあってもLAZYは腐ることもなく、自らが目指した場所を諦めもしなかった。コンサートでは常に洋楽のカバーを披露していたというし(1978年発表のライヴ盤『レイジーを追いかけろ』にはSteppenwolfの「Born to Be Wild」やUFOの「Try Me」が収録されている)、音源を発表する毎にメンバー作曲のナンバーも増え、ハードロック色を強めていった。そして、1980年7月からの全国ツアー『DOMESTIC TOUR IN SUMMER』でついに本来のバンドの姿と言うべきスタイルを披露。これが世に言う“ヘヴィメタル宣言”である。さらに同年8月のシングル「感じてナイト」を露払い(?)として、その年の12月に発表されたのがアルバム『宇宙船地球号』だ。その中身以前に、「感じてナイト」『宇宙船地球号』共にそのジャケ写が明らかにそれまでとは異なっており、そこだけでもバンドが変容したことがありありと分かる。
「感じてナイト」ではメンバー5人それぞれに異なるラフな格好(とりわけ影山、高崎のヒョウ柄のTシャツが印象的)。メンバー全員、髪も長く、何よりもデビュー時のような笑顔ではなくキリっとした眼差しでこちらを睨んでいる。『宇宙船地球号』に至っては、当時の多くの洋楽バンドがそうであったようにイラストを使用。バンドのキャラクターよりも作品そのものに主眼が置かれていることを主張したかったのだろう。そう感じるジャケである。しかも、それを手掛けたのは、映画『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』の国際版ポスターで世界的に高い評価を得た生賴範義氏。その先見の明に驚くと同時に、その後のLOUDNESSの活動を鑑みると、あの時のLAZYはハードロックバンドへの回帰のみならず、もしかしてすでに世界市場も視野に入れていたのだろうかと想像させてくれる(知らんけど…)。
エッジーなギターのカッティングで始まるM1「DREAMER」はいきなり速弾きも飛び出して、リズム隊の入り方と含めて、開始10秒でこのバンドがHR/HMを奏でていることが理解できる。サビはキャッチーだがややマイナーで、ポップではあるがスウィートではない。オルガンの重ね方も明らかにHR/HMのそれ。歌詞も、まさしく“宣言”と言うべき内容である。
《今のぞむものは、夢だけ/さめた世界は まっぴらごめん/Rock’n Rollを感じる それだけ/すべてをかければ Dreamer/いつも言いたいほうだい/言わせておけば いいさ/それから先は/If you’re Rock’n Roller/Can’t you see baby anything/If you’re Rock’n Roller/Can’t you see baby anytime》(M1「DREAMER」)。
“補作詞”として本作でほとんどの歌詞を提供している伊達 歩(=伊集院静)の名前がクレジットされているが、M1の作詞は高崎。正直言ってテクニカルな歌詞ではないけれども、何よりも彼らの意気込みが滲み出ているようではある。
「感じてナイト」のC/WでもあったM2「DREAMY EXPRESS TRIP」では、その高崎がリードヴォーカルを務めている。イントロのジャングルっぽいドラムス→ギターリフだけで飯3杯はイケる代物。ポップで疾走感もあって、それでいて重い。“ヘヴィメタル、ここにあり!”である。とにかくギターとドラムが活き活きしている。水を得た魚と言ったらいいか、高崎が歌っていると思うと余計にギターが立っている印象すらある。
M3「天使が見たものは」はどことなくブルースロックの匂いがするミッドバラード。途中からテンポがアップになる辺りがドラマチックで、プログレ…というほどでもないけれど、それに近い雰囲気はある。ヘヴィなリフで再び迫るM4「TIME GAP」もテンポはそれほど速くはないが、4つ打ちのドラムがグイグイと楽曲を引っ張っていく。Bメロから印象的に重なるキーボードも楽曲全体の大きなアクセントであり、十二分にその存在感を示している。これまたドラマチックで、奥行きのある主旋律を持つM5「遥かなるマザーランド」はLAZYで唯一のインストだ。LAZYというバンド名がDeep Purpleのインスト楽曲から頂戴したものだと前述したが、そう思うと、これは文字通りの原点回帰的楽曲であったのかもしれない。個人的な感想としては、これらの楽曲には○○○○○○○や△△△△に近い感触があって、直接的に影響を与えたということではないだろうが、この時のLAZYがのちにHR/HM界隈でスタンダードとなるサウンドを堂々と鳴らしていたことを思い知らされるところだ。
続くM6「EARTH ARK(宇宙船地球号)」はアナログ盤で言うところのB面1曲目。そこにタイトルチューンを置く辺り、コンセプチャルな作りを感じさせる。ギターとベースのユニゾン、間奏へのブリッジなど、聴きどころも多く、改めてこのバンドのテクニックを確認できる。M7「僕らの国でも」、M8「美しい予感」はいずれも開放感ある歌メロが特徴ではあるだろう。それに呼応してか、ブギーっぽいサウンドを聴くこともでき、HR/HMと言えどもそのルーツはR&Rであって、先達へのリスペクトを勝手に感じてしまう。また、ともに伊達 歩(=伊集院静)の手掛けた歌詞が深い。前者は反戦のテーマが感じられるメッセージソング。後者は一見ラブソングのように見えるが(たぶん)この時点でのバンドの所信表明とも思える内容。最初期、すなわちアイドル期の歌詞も決して悪いものではないけれども、M7、M8辺りと聴き比べると隔世の感を禁じ得ないというか、サウンド以上にLAZYのバンドとしての変貌を強く感じさせるものであろう。
M9「LONELY STAR」は高音のキーボードから始まって、ドラム→ギター&ベース→きれいなハーモニーが重なるヴォーカルと連なっていくイントロで、バンドとは煎じ詰めればそこにあるパートのアンサンブルの妙であることを示唆しているかのようだ。序盤はプログレのようでもあるが、Aメロはちょっとラテンな感じがあって、Bメロはのちのビートロック風、そしてサビはアーバンな雰囲気。“ヘヴィメタル宣言”したくらいなのでLAZYはヘヴィメタルバンドではあるのだろうが、M9「LONELY STAR」を聴く限り、ステレオタイプのそれではなかったことが分かるし、この辺も少なからず、のちのロックバンドに影響を及ぼしたのではないかと想像できる。
■発売直後の解散。そして…
そのアルバム『宇宙船地球号』は初動こそ1st『This is the LAZY』に及ばなかったものの、その後の累計でLAZYのアルバムの中で最も売れたアルバムとなった。樋口とともに本作の制作を強く推進した高崎は“間違ってなかったんじゃないかな”と振り返り、影山は“魂みたいなものが入っている気がします”と評している(上記の2017年11月のOKMusicのLAZYのインタビューより)。だが、皮肉なもので…と言うべきか、『宇宙船地球号』で自分たちが目指す音楽を追求したことによって、各自の方向性の違いが露呈。1981年2月18日のライヴにおいて解散宣言を行ない、同年5月31日、正式に解散する。『宇宙船地球号』発売からわずか2カ月のことであった。
以後、影山がソロシンガーとして再スタートし、高崎と樋口とは新バンド、LOUDNESSを、井上と田中はネバーランドを結成。LOUDNESSは米国ビルボートでチャートインを果たし、世界で活躍するジャパニーズ・ヘヴィメタルバンドの先駆けとなった(過去、当コラムでLOUDNESSの『Thunder In The East』を取り上げているので、そちらも是非ご参照ください)。影山は一時期人気が低迷したというが、1980年代半ば、アニソン歌手として復活。現在はJAM Projectのリーダーも努めるアニソン界のプリンスである。影山、JAM Projectもまた世界中に多くのファンがおり、こちらも日本を代表するサブカルのコンテンツとなっている。井上はネバーランド以後いくつかのバンドを経て、音楽プロデューサーに転身。レコードレーベルを有する株式会社ランティスの社長を経て、株式会社バンダイナムコライヴクリエイティブの社長や、バンダイナムコアーツの副社長にも就任している。残念ながら田中、樋口は鬼籍に入られたが、残った3人ともに、それぞれの持ち場で国内外の音楽シーンを盛り上げ続けているのは、LAZYが不世出のバンドであった何よりの証左だろう。
TEXT:帆苅智之
アルバム『宇宙船地球号』
1980年発表作品
<収録曲>
1.DREAMER
2.DREAMY EXPRESS TRIP
3.天使が見たものは
4.TIME GAP
5.遥かなるマザーランド
6.EARTH ARK(宇宙船地球号)
7.僕らの国でも
8.美しい予感
9.LONELY STAR
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