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泥臭いルーツロックと都会的なAORサウンドをミックスさせたレス・デューデックのソロデビュー作『レス・デューデック』

今は亡きデュアン・オールマンの再来と言えば、デレク・トラックスの印象が大きいが、かつてはレス・デューデックに注目が集まっていた。2013年には来日公演があったのだが、観に行ったのはほとんどが昔からのファンで、ロック界ではすっかり忘れられた存在になってしまっている。しかし、彼が76年にリリースしたソロデビュー作『レス・デューデック』と、続くセカンド『セイ・ノー・モア』(‘77)は、後にTOTOを結成する敏腕アーティストたちとタッグを組み、オールマンブラザーズ譲りの泥臭いロックと洗練されたAORをミックスした新しいサザンロックを聴かせている。この2枚はどちらも甲乙付け難い内容であるが、当時、彼のデビューはかなり衝撃的な出来事だったので、今回は1st アルバムの『レス・デューデック』を取り上げる。プロデュースは『シルク・ディグリーズ』(‘76)の大ヒットで知られるボズ・スキャッグスが買って出ている。

■唯一無二のデュアン・オールマンの存在

1971年、オールマンブラザーズバンドのリーダー、デュアン・オールマンはバイク事故で亡くなった。まだ24歳の若さであったが、すでに数々の名演でロック界屈指のギタリストとして知られていただけに、その死は大きく取り上げられた。不運にもその1年後、ベーシストのベリー・オークリーまでもバイク事故で失い、グループは壊滅的状況となった。解散が囁かれる中、グレッグ・オールマンをはじめ残りのメンバーは一念発起し、『ブラザーズ・アンド・シスターズ』(‘73)をリリースする。このアルバムはアメリカンロックの代表的なナンバーのひとつ「ランブリン・マン」(全米2位)や、新メンバーのチャック・リーヴェルのピアノソロが冴え渡る「ジェシカ」を収録するなど、新生オールマンブラザーズバンドの記念碑的作品となり、グループは完全再生する。

このアルバムにゲストとして参加したのが、デュアンの再来と言われた若干20歳の名ギタリスト、レス・デューデックである。彼のプレイはスライドではデュアンに、指弾きではディッキー・ベッツに似ており、このままデュアンの後任としてグループに参加するかと思われたが、「デュアンの後任は誰も務められない」とグループ内外から厳しい意見が相次ぎ、デューデックは結局このアルバム以降はグループに帯同せず、セッション活動を選んだ。オールマンの関係者にとってデュアンという存在は唯一無二の絶対的なものであり、デューデックもデュアンのフォロワーとして、そのことは十分すぎるぐらい認識していただろう。偉大なデュアン・オールマンを超えるためには、デュアンとはまったく違った道を進むしかないのである。

■カントリーロックへの転身は邪道か

『ブラザーズ・アンド・シスターズ』が出た時、オールマンのブルース色が好きなリスナーは、この作品がカントリーロック寄りすぎると批判したが、それはまったく的外れだと言うほかない。なぜなら、デュアン自身がブルース、カントリー、サザンソウルなどを愛好するアメリカーナ的スタンスを持っているからである。そして、ブルースとカントリーを同じレベルで扱うことこそがサザンロックの魅力であり、それはデュアンの生前に録音された「ブルー・スカイ」(『イート・ア・ピーチ』(‘72)所収)を聴けば明らかだ。だから、『イート・ア・ピーチ』に続くアルバムの流れとして『ブラザーズ~』のカントリーロックテイストは違和感がない。確かに、グレッグが演奏をリードしたスワンプ系楽曲(「むなしい言葉」や「カム・アンド・ゴー・ブルース」)と比べると、ディッキー・ベッツの書く曲(「ランブリン・マン」や「サウスバウンド」)が軽すぎるのは否めないが、「ジェシカ」や「ポニー・ボーイ」など、オールマンブラザーズらしいスタイルはしっかり収められている。どちらにしても、グレッグとディッキーのイニシアチブを曲によって分けることが新生オールマンの方針であり、『ブラザーズ~』ではディッキーが主導権を取った曲が売れてしまったので、以降のアルバムではディッキーが独裁的になってしまい、グループはしばらく失速することになる。

デュアンとオークリーが亡くなったあと、グレッグもディッキーもバンドを続けていくか悩み、それぞれに行動を起こしていた。ディッキーはフロリダにすごいギタリストがいると話題になっていたレス・デューデックとセッションを行ない、かなりの手応えを感じていた。ツインリードでの新グループを作ろうとまで考えていたようだが、レコード会社との契約もあって『ブラザーズ~』のレコーディングがスタートし、ディッキーはデューデックに参加を要請する。彼の参加はグループにとって大きな刺激になったようで、特に「ランブリン・マン」でのツインリードは「ブルー・スカイ」を進化させたものとなり、デューデックの確かな力量を示したと言える。

■ボズ・スキャッグスと スティーブ・ミラー

『ブラザーズ〜』を聴いたボズ・スキャッグスはデューデックをツアーメンバーとして雇い、同じく『ブラザーズ〜』で興味を示したサンフランシスコの重鎮スティーブ・ミラーもツアーやレコーディングでデューデックを起用する。ボズの全米2位の『シルク・ディグリーズ』(‘76)やミラーの全米3位になった『フライ・ライク・アン・イーグル』(’76)にも参加し、デューデックの名は広く知られるようになる。

いろいろなセッションに顔を出した中に、結成前のジャーニーの1回目のリハにも参加していたそうだが、その同じ日にコロンビアレコードからソロ契約のオファーがあり、そちらを選択したというエピソードもある。

■本作『レス・デューデック』について

その後、ソロアーティストとして本作『レス・デューデック』をリリース、水と油のようなルーツロックとAORをうまくミックスし、新しいサザンロックを創り上げることに成功する。プロデュースはボズが務め、その関係からバックミュージシャンは『シルク・ディグリーズ』に参加した、のちのTOTOとなるデビッド・ペイチ(kye)、デビッド・ハンゲイト(Ba)、ジェフ・ポーカロ(Dr)らの他、チャック・レイニー(Ba)、ジェラルド・ジョンソン(Ba)、トム・スコット(Sax)、デビッド・フォスター(kye)など、一流のアーティストたちがデューデックのデビューに花を添えている。

収録曲は全部で8曲、1曲のみ共作で、あとは全てデューデックが書いている。

1曲目の「シティ・マジック」はシングルカットこそされていないが、ロスのラジオ局で相当オンエアされ、当時は日本でもよく取り上げられていたナンバー。都会的なウエストコーストロックっぽいアレンジの中に、オールマン風の泥臭いヴォーカルやギターが登場するのは不思議な感じであった。ペイチのピアノもチャック・リーヴェルをリスペクトしたプレイを披露しているが、なんと言ってもデューデックのギタープレイが光っている。また、彼が得意とするスライドは「サッド・クラウン」だけで使われている。これは、スライドを多用すると泥臭くなりすぎるからという理由で、このあたりはプロデューサーとしてのボズの時代感覚が出たのだろうと思う。

スローなナンバーは「イーチ・モーニング」(ここでは必殺の泣きのギターが聴ける)だけで、あとは彼のドライブするギターワークを生かすために、テンポの速いファンキーな曲で占められている。本作リリース時、デューデックはまだ24歳(デュアンが亡くなった年齢!)ながら、ギターもヴォーカルもツボを押さえた名演揃いである。時にはデュアンが乗り移ったかのようなドライブ感にあふれるプレイを聴かせる。

■本作以降の活動

本作リリースの翌年、同じぐらい出来の良い2ndアルバム『セイ・ノー・モア』をリリースする。このアルバムには彼の代表曲「オールド・ジャッジ・ジョーンズ」が収録されている。この曲、アメリカはもちろん日本でもよくオンエアされていた。その後はマイク・フィニガン、ジム・クルーガー(ふたりともデイブ・メイソン・バンド)とハードなアメリカンロックグループ、デューデック・フィニガン・クルーガー・バンド(DFKバンド)を結成する。デューデックの最高傑作は、このグループの唯一のアルバム『DFK』(’78)だと僕は思う。ただ、このグループは売れなかったから、残念なことに現在CDは入手困難になっている。DFKバンドのあとはソロに戻ってアルバムを数枚リリースするものの、これら3枚のアルバムと比べると平凡な出来になってしまった。

TEXT:河崎直人

アルバム『Les Dudek』

1976年発表作品

<収録曲>

1.シティ・マジック/CIty Magic

2.サッド・クラウン/Sad Clown

3.ドント・ストップ・ナウ/Don’t Stop Now

4.イーチ・モーニング/Each Morning

5.イット・キャン・ドゥ/It Can Do

6.テイク・ザ・タイム/Take The Time

7.クルージング・グルーヴ/Cruisin’ Groove

8.ホワット・ア・サクリファイス/What A Sacrific

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