ニルヴァーナ、パールジャムなど、90年代に入って次々に登場したオルタナティブロックの大物グループがいるが、それらのグループに大きな影響を与えたのがピクシーズであることは、熱心なロックファンなら周知の事実だろう。今回取り上げる本作『ドリトル』は代表作というだけでなく、ロック史に残る名盤として永遠に語り継がれる作品である。
■パンクロックとそれ以外のロック
ロックの歴史について書かれた本を読むと、70年代中頃にパンクロックが登場してロック界は大きく変わったとされている。確かにそれは間違いではないのだが、リアルタイムで60年代中頃からロックを聴いてきた人間として補足したいことがある。パンクが現れた時、それ以外のロックは成熟を極めており、大人だけが楽しむ保守的な音楽になっていた。70年代中頃にはハードロックでもプログレでもスタイルを保持することが中心となり、R&Bやロックンロールが登場した50年代のような破壊的インパクトはとっくに消え失せていた。大人になったロックは、もはや若者たちにとってフラストレーションの受け皿とはならなかったのだ。もともとは若年層をターゲットにしたロックではあったが、アーティスト側もリスナー側も歳を取るという事実は当然の帰結である。そこで、エネルギーに満ちあふれた若者の代弁者として登場したのがパンクロックである。パンクロック登場以降は一般リスナーの青年以上はパンク以外のロックしか聴かないし、若者たちはパンクロックしか聴かなくなった。
前置きが長くなったが僕が補足したいのは、ロック界はリスナーの年齢や感性によってパンクとパンク以外の“棲み分け”が整然と行なわれるようになり、“棲み分け”は大人と若者の好きなアーティストがまったく重ならず、広がりがなくなってしまったということである。かつてのロックファンはツェッペリンとCSN&Yを、またはイエスとジョン・デンバーを同じように聴いていたのだが、パンクが登場してからはクラッシュとボズ・スキャッグスを、イーグルスとラモーンズをどちらも聴くことはなくなってしまったのである。
■メジャーとインディーズのバランス
もうひとつ、パンク以前と以後で変わってしまったことは、ビルボードなどのチャートに上がってくるのはビッグセールスを上げているアーティストばかり(チャートの集計そのものが売上げベースであるから当然であるが)で、メジャー契約している大物パンクロッカー以外はどんなにライヴで人気があってもチャートには反映されないことである。主にパンクロッカーたちはインディーズで活躍しているのだからチャートに出てこないのは当然のことであるが、若者たちは自分たちの正しいチャートが必要だと考えていたのだろう。そして、若者による若者のためのチャートが生まれた。それが1979年に誕生したCMJ(カレッジ・メディア・ジャーナル)である。これは全米の大学のラジオでオンエアされる回数によって順位が決まるというもので、売上げに左右されないだけに純粋なチャートだと言えるだろう。
CMJが設立されたことで、大人と若者のそれぞれのチャートが存在することになった。80年代のロックシーンはメジャー所属でもインディーズ所属でもきっちりと評価されるようになり、これが90’sオルタナティブロックを生み出す根幹となった。REM、ドリーム・シンジケート、ロング・ライダースのようなペイズリー・アンダーグラウンドのグループやソニック・ユース、ハスカー・ドゥ、ザ・リプレイスメンツなど、90’sオルタナティブロッカーに多大な影響を与えたグループに注目が集まったのもCMJならではの現象である。これらの音楽は普通ビルボードのチャートに出るような音楽性を持たず、大人とは違う若者たちの鋭い感性が生かされた結果となった。中でも、REMはCMJが生んだ世界的なインディーズ・スターである。
■CMJとビルボードの相違点
ちなみに、1984年のCMJ年間1位(オンエア回数が多い)はREMの『夢の肖像(原題:Reckoning)』で、同じ年のビルボードチャートでは27位、1985年の1位はCMJとビルボードの両方でティアーズ・フォー・フィアーズの『シャウト(原題:Songs from the Big Chair)』が獲得している。面白いのは1987年で、1位はCMJとビルボードの両方でU2の『ヨシュア・トゥリー』が選ばれている。CMJの2位にはザ・リプレイスメンツの『Pleased to Meet Me』が選ばれているが、ビルボードでは131位という結果に終わっている。ザ・リプレイスメンツは伝説のオルタナティブロックグループとして熱心なファンにはよく知られているが、大人のチャートから見ると認められていなかった。この1987年はCMJチャートのオルタナティブ元年ともいうべき年であり、デッド・ミルクメン(6位)、ハスカー・ドゥ(7位)、ソニック・ユース(13位)などが入り、この結果によってアメリカ各地のインディーズ・レーベルが一気に認知されるきっかけとなった。
■オルタナティブの萌芽
80年代中頃になると、スミス、XTC、ニューオーダーなどイギリスのインディーズグループたちがCMJで取り上げられ人気を呼ぶ。コクトー・ツインズやデッド・カン・ダンス、ディス・モータル・コイルのコンピシリーズなど、独特のゴシック感覚で知られるイギリスのインディーズ・レーベル『4AD』が、アメリカの『スローイング・ミュージズ』に続きピクシーズと契約したのが86年のことであった。
ピクシーズはリーダーのブラック・フランシス(ギター、ヴォーカル、ソングライティング)、キム・ディール(ベース、cおーカル、ソングライティング)、ジョーイ・サンティアゴ(ギター)、デビッド・ラバリング(ドラムス)の4人組で、ボストンで結成された。
ピクシーズのデビューミニLP『カム・オン・ピルグリム』(’87)は、パンクスピリットを持った新しいハードロックとして、まずイギリスで認知されることになるのだが、この作品と翌年にリリースされたデビューアルバム『サーファー・ローザ』こそが90’sオルタナティブロックやグランジの先駆けとなる画期的なサウンドを持っていたのである。『サーファー・ローザ』はオルタナティブロックの仕掛け人として知られる才人スティーブ・アルビニがエンジニア(本当はプロデューサーであるがアルビニはそう呼ばれるのを嫌がる)として参加、カート・コバーン(ニルヴァーナ)やビリー・コーガン(スマッシング・パンプキンズ)に大きな示唆を与える内容となる。ニルヴァーナの『イン・ユーテロ』(’93)でアルビニを迎えたのは『サーファー・ローザ』のサウンドがほしかったからとコバーンは語っている。
■本作『ドリトル』について
2ndフルアルバムとなる本作『ドリトル』は、前作とは打って変わってキャッチーなメロディーが満載のアルバムとなった。収録曲は15曲で、短くまとめられた楽曲は全てが名曲揃い。この頃はまだグループ内のトラブルも少なかったのか、フランシスの書くナンバーはどれも伸び伸びしているし、のちに仲違いすることになるキムとのデュエットもこの時点では微笑ましい。誰にも似ていないフランシスのヴォーカル(明るい屈折感が不気味だけど…)と、ジョーイのキレの良いギターワークが本作のキモだろう。
ちなみに、本作はイギリスのメジャーチャートで8位まで上昇、アメリカではシングルカットされた「モンキー・ゴーン・トゥ・ヘブン」(5位)と「ヒア・カムズ・ユア・マン」(3位)が大ヒット。1989年のCMJアルバムチャートでも2位と大健闘するのだが、このメジャーでの成功が徐々にグループ内の亀裂を生むことになる。
本作は90’sオルタナティブロックのマイルストーンになった作品であり、このアルバムがリリースされていなければ、オルタナティブロックの景色は今とは違ったものになっていただろう。名盤である。
TEXT:河崎直人
アルバム『Doolittle』
1989年発表作品
<収録曲>
1. ディベイサー/Debaser
2. テイム/Tame
3. ウェイブ・オブ・ミューティレイション/Wave Of Mutilation
4. アイ・ブリード/I Bleed
5. ヒア・カムズ・ユア・マン/Here Comes Your Man
6. デッド/Dead
7. モンキー・ゴーン・トゥ・ヘブン/Monkey Gone To Heaven
8. ミスター・グリーブス/Mr. Grieves
9. クラキティ・ジョーンズ/Crackity Jones
10. ラ・ラ・ラブ・ユー/La La Love You
11. 13番目のベイビー/No 13 Baby
12. ゼア・ゴーズ・マイ・ガン/There Goes My Gun
13. ヘイ/Hey
14. シルバー/Silver
15. ガウジ・アウェイ/Gouge Away
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