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チェッカーズ、大ブレイクの最中に制作された『絶対チェッカーズ!!』に見るロックスピリット

7月10日にニューアルバム『フジイロック』をリリースしたばかりの藤井フミヤ。現在、35周年記念公演『十音楽団』を開催中だ。このツアーは室内楽アンサンブルを加えた10人の演奏家で奏でられるサウンドをバックにパフォーマンスするというもので、すでに残りの公演はほぼソールドアウト。デビューから35年経っても衰えないアーティストパワーを見せつけられているような恰好だ。今週はそんな藤井フミヤのキャリアのスタートであるバンド、チェッカーズをピックアップしてみた。

■1980年代を代表するバンドのひとつ

この原稿に取り掛かるまで、自分自身、これまで一度も『絶対チェッカーズ!!』を聴いたことがなく、今回初めて聴くものだとばかり思っていた。しかし、いざ聴いてみると、M1「危険なラブ・モーション」からM10「ムーンライト・レヴュー50s’」まで結構耳馴染みがあった。歌詞もメロディーもわりと覚えがあって、少し驚いた。本作が発売された頃…というよりも、チェッカーズがデビューして大人気を獲得していた1983~1984年というと、個人的にはRCサクセションやTHE STALINを始めとする日本のロックばかり聴いていたし、自分自身、10代特有の変な自意識から“アイドルを聴くなんてカッコ悪い”と思って食わず嫌いしていたと思い込んでいたのだが、どうやらリアルタイムでちゃんと聴いていたようだ。たぶん自分では買わなかっただろうから(それなら忘れることもなかろう)、知り合いからLPレコードを借りたのだろう。誰から借りたのか、こちらから“貸して”と頼んだのか、あちらから“これ聴いてみて”と渡されたのか…最近は数カ月前の記憶も怪しい筆者なので35年も前のことを詳細に覚えているはずもないのだが、聴いたことすら忘れていたにもかかわらず、そのメロディーや歌詞を耳にして楽曲のシルエット、ひいてはアルバム作品としてのフォルムを思い出すことになるとは、音楽が持つ本来の効果、効能のようなものを目の当たりにした思いだ。

その入手ルートは完全に失念したが、あの頃のチェッカーズの人気を考えれば、筆者のようなファン以外の者が『絶対チェッカーズ!!』を聴いていたとて何ら不思議ではない。それほどにその人気は圧倒的だった。当時の年間売上金額を調べてみた。チェッカーズがデビューしたのは1983年。デビューシングル「ギザギザハートの子守唄」は発売が9月で、当初はほとんど売れなかったという話なので、この年の売上げは大したことがなかった。当然、売上げ上位にも顔を連ねていない。ちなみに1983年の年間売上金額トップ3は、1位:中森明菜、2位:松田聖子、3位:サザンオールスターズで、当時を知る人なら納得の顔触れである。その翌年、1984年1月に発売された2ndシングル「涙のリクエスト」に端を発して大ブレイクしたチェッカーズは、そのトップ3に割り込む。サザンオールスターズを抜いて、1位:松田聖子、2位:中森明菜に次ぐ3位。1984年のサザンは7thアルバム『人気者で行こう』を発売しており、人気に陰りがあったわけでも何でもなかったので、そのことを鑑みると相対的にあの頃のチェッカーズの勢いが分かろうというものだ。1985年は1位:中森明菜、2位:松田聖子、3位:チェッカーズと、トップ3の顔触れは前年と変わらなかったが、数字を見ると、この年のチェッカーズの売上げは松田聖子に肉薄していたことが分かる。改めて言うことではないけれども、チェッカーズは1980年代半ばの音楽シーンをけん引したバンドであり、1980年代を代表するロックバンドであることは疑いようがない。

■“チェッカーズカット”の必然?

アルバム『絶対チェッカーズ!!』からうかがい知ることができる音楽性は後述するとして、初期チェッカーズと言えばそのファッション性を切っても切り離せないので少し述べてみたい。何と言ってもメンバーの髪型である。サイドが短く刈り上げられたツーブロックで、トップと前髪は無造作な感じで、さらにそのふぞろいの前髪が少しばかり鼻にかかるように垂れ下がったスタイル。いわゆる“チェッカーズカット”である。当時、巷で相当に流行ってた記憶があるが、今になって思うと、あのタイミングであのスタイルを提示した戦略は実にお見事だったと言わざるを得ない。

チェッカーズのデビュー前まで、ロックバンドのメンバーの髪型と言えば、リーゼントか長髪であった。まぁ、1980年代前半にもなると、それまで定番だった長髪は敬遠されがち、リーゼントもやや衰退傾向で、忌野清志郎や遠藤ミチロウがそうであったように、パンクロックの影響から短めでツンツン立てるようなものが流行っていたように思うが、それは好事家の見立てで、ハードロック勢の長髪、キャロルから横浜銀蝿へとつながるロックンロール勢のリーゼントというのが一般的な(平均的な)ロックバンドの見方ではあったと思う。デビュー前のチェッカーズはオールディーズをやっていたというから、そのマナーに則っていたのだろう。彼らもリーゼントだったが、デビューにあたって全員が髪を切られた。泣く泣く応じたメンバーもいたという(そう思って、シングル「ギザギザハートの子守唄」のジャケ写を見ると、笑顔で写っていないメンバーが自身の髪型に納得いかないように想像できて面白い)。“たられば”は禁物であるが、もしチェッカーズがメジャーデビュー後もリーゼントであったらどうなっていたであろうか? 

《ちっちゃな頃から 悪ガキで/15で不良と呼ばれたよ/ナイフみたいにとがっては/触わるものみな 傷つけた》《仲間がバイクで死んだのさ/とってもいい奴だったのに/ガードレールに花そえて/青春アバヨと泣いたのさ》《熱い心をしばられて/夢は机で削られて/卒業式だと言うけれど/何を卒業するのだろう》(M5「ギザギザハートの子守唄」)。

メロディーはともかく、「ギザギザハートの子守唄」の歌詞はリーゼントに似合いすぎている。横浜銀蝿に端を発した“銀蠅一家”が盛り上がったのが1982年。同年には近藤真彦主演映画『ハイティーン・ブギ』の同タイトル主題歌もヒットしているので、もしかするとチェッカーズがデビューした1983年には“ツッパリ”というキーワードや、リーゼントに革ジャンといったファッションはまだイケたかもしれない。だから、チェッカーズがリーゼントに革ジャンであったら、もしかして「ギザギザハートの子守唄」はいきなり売れたのかもしれない。しかし、もしそうであったら大ブレイクのきっかけとなった2ndシングル「涙のリクエスト」は生まれていたのだろうか。正直言ってそれには“?”で応えざるを得ない。仮の話のさらに仮の話で恐縮だが、「ギザギザハートの子守唄」が売れていたら、次作は「涙のリクエスト」ではなく、おそらくもっと“ツッパリ”要素を踏襲、強調していただろう。デビュー時のポップなルックスであったから「ギザギザハートの子守唄」は届くべきところに届かなかったのだろうし、「涙のリクエスト」は届くべきところへ届いたと考える。

そんなふうに想像すると、“チェッカーズカット”はバンドにとっても、音楽シーンにとっても、シンギュラーポイントみたいなものだったと考えられる。ちなみに“チェッカーズカット”を手掛けたのは代官山の美容院のオーナー、本多三記夫氏。1979年にYellow Magic Orchestraの“テクノカット”も手掛けていた人である。そんな人がブレーンのひとりであったのだから、チェッカーズが当時のポップカルチャーシーンでアイコンとなり得たのも十分納得である。

■心意気を大いに買えるデビュー盤

アルバム『絶対チェッカーズ!!』は1984年7月21日発売。3rdシングル「哀しくてジェラシー」の発売直後、その人気が爆発した渦中であった1984年5月8~17日にレコーディングされたという(2ndシングル「涙のリクエスト」が1984年3月29日放送のテレビ歌番組『ザ・ベストテン』で1位となり、それから7週連続1位、14週間ランクインし続けたので、そのことからも渦中だったことが分かる)。超過密スケジュールに追われていた頃であって、満足にレコーディング時間を取れていなかったであろうことは全10曲で収録時間35分余りということからも分かるが、それでもチェッカーズのロックバンドとしての意地のようなものが感じられる作品ではある。

まず、M6「涙のリクエスト」がアルバム用に再録されている点にそれを見る。本作収録バージョンは一発録りだという。パッと聴いて気付くことはストリングスが入ってないことと、言われてみれば間奏とアウトロが長いことと、サビが1回多くなっていることが分かるものの、はっきり言って演奏がものすごく上手いとか、シングル版に比べてグルーブ感が増しているという印象はない。だが、誰が言い出したことなのか分からないが、「涙のリクエスト」を録り直そうとした心意気は大いに称えたい。

某有名音楽評論家が自身のラジオ番組で「ギザギザハートの子守唄」をオンエアした時、“しかし、へったくそだねぇ”と笑っていたことをよく覚えているのだが、バンドやロックというのは煎じ詰めていけば、演奏の上手い下手は二の次、三の次である。チューニングが合ってないとか、そもそもリズムや音程が合ってないというのは論外であるけれども、そうでなければ、演奏力以上の“プラスα”の方が大事である。「涙のリクエスト」を再録、しかもそれを一発録りしたのは、ロックバンド、チェッカーズの意地であったろうし、それは今も残る生真面目なテイクから感じることができる。

チェッカーズは4thアルバム『FLOWER』(1986年)から作詞作曲からアレンジまでバンドで手掛けた楽曲を収録するようになり、シングルでも12th「NANA」(1986年)から完全オリジナル楽曲を発表していく。その辺は『絶対チェッカーズ!!』からもうかがえる。M7「MY ANGEL (I WANNA BE YOUR MAN)」とM8「ガチョウの物語」とがそれ。前者は高杢禎彦(Vo)作詞、武内享(Gu)作曲。後者が藤井郁弥(Vo)作詞、大土井裕二(Ba)作曲。ともに編曲クレジットはチェッカーズとなっている。いずれもシングル曲として出せたかというと、さすがにこのままでは難しかったと言わざるを得ないが、デビュー当初からプロの作家から楽曲を提供してもらうだけのバンドではなかったことをはっきりと示していた。この他、郁弥はM1「危険なラブ・モーション」、M3「ウィークエンド アバンチュール」、M4「渚のdance hall」で作詞を、鶴久がM2「HE ME TWO(禁じられた二人)」とM3「ウィークエンド アバンチュール」で作曲を手掛けている。

また、『絶対チェッカーズ!!』はチェッカーズがバラエティー豊かなポップなバンドであることをよく示している。編曲クレジットがチェッカーズであったM7、M8の他、アカペラ曲のM10「ムーンライト・レヴュー50s’」はチェッカーズには高杢と鶴久というサイドヴォーカルがいて、アマチュアの頃からドゥーワップのスタイルも内包していたことが分かる。さらに、M1「危険なラブ・モーション」ではR&R、M3「ウィークエンド アバンチュール」ではレゲエ~スカ、M9「ひとりぼっちのナタリー」ではのちのヒット曲「星屑のステージ」や「夜明けのブレス」にも通じるミディアムバラードと、起伏に富んだ楽曲が収められており、レコーディング期間も収録時間も短かったにもかかわらず、アルバムとして形にしようと腐心したことも分かる。そここも本作のいいところだと思う。

歌詞はオールディズなR&Rバンドであることを意識してか、様式美に染まったものが多くて若干閉口なところもあるのだが、売野雅勇作詞のM2「HE ME TWO(禁じられた二人)」がそれらを補って余りある。

《Woo… He an’ Me Two/Woo… 泣きながら》《渚に埋めた 涙のダイアリー/who-who, Two boys》《禁じられた恋が 今も忘れられず/窓の下にひとり 命賭けで/Call your name》《後指さされても 変わらないと誓った/愛は指を抜ける 砂のように far away/あの日から止まらない/tears on my cheek I miss you》(M2「HE ME TWO(禁じられた二人)」)。

チェッカーズのファンはご存知のことと思うが、この楽曲のテーマはゲイである。信じられないことに、ファッキンな国会議員から現在もなお“生産性がない”と批判的な視点を向けられるLGBT。今から30年以上も前に、当時人気絶頂であったバンドがそれをサラリと取り扱っている。その先見の明と、おそらくこの時期にはまだ英断だったであろう判断を下したバンド、スタッフの姿勢はまさしくロックであったと言える。

TEXT:帆苅智之

アルバム『絶対チェッカーズ!!』

1984年発表作品

<収録曲>

1.危険なラブ・モーション

2.HE ME TWO(禁じられた二人)

3.ウィークエンド アバンチュール

4.渚のdance hall

5.ギザギザハートの子守唄

6.涙のリクエスト

7.MY ANGEL (I WANNA BE YOUR MAN)

9.ひとりぼっちのナタリー

10.ムーンライト・レヴュー50s’

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