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50周年を迎え、今も語り継がれる伝説のロックフェス『ウッドストック』

1969年8月15~18日、ニューヨーク郊外で開催されたロックフェスが『ウッドストック 音楽と芸術の祭典(Woodstock Music and Art Festival)』で、今年はちょうど50周年となる。これまで、79年、89年、94年(25周年)、99年、2009年と記念フェスが開催されてきていて、2019年はこれまでで最も大きな節目となるだけに、大掛かりなフェス(もしくはツアー)が開催されると思われる。現時点では、まだ出場アーティストは発表されていないが、過去の例を参考にすると当時の関係者だけでなくオルタナティブ系やヒップホップ系のアーティストが出演する可能性も少なくない。フェスの日程は8月16~18日に予定されており、残念なことに同じ日程でサマーソニックがあるので何らかの影響があるかもしれない。そんなわけで、今回は『ウッドストック』のサウンドトラックを取り上げようと思う。当時、コンサートの模様を収録したドキュメンタリー映画は映画館で公開されたし、サウンドトラックも3枚組(4,500円)というボリュームでリリースされたことを考えると、このフェスが現代と変わらない商業戦略を持っていたことが窺い知れる。

■ロックフェスの誕生

今では世界中で大きなロックフェスが開催されている。何万、何十万というオーディエンスを楽しませるだけでなく、飲食、トイレ、治安など、フェスを取り巻くシステムも安定していて、すっかり安全なお祭りとして定着した感がある。そもそも野外音楽フェスはどこで始まったのだろうか。おそらく、1954年に始まった『ニューポート・ジャズ・フェスティバル』(アメリカ、ロード・アイランド州)が野外としては最初期のフェスである。スタートからしばらくはジャズのアーティストだけしか出演しなかったが69年(『ウッドストックフェス』の開催年)には、ロックやブルース、R&Bのアーティストも登場し、ジャンルを超えたアーティスト同士の交流はポピュラー音楽の発展にも貢献したと言えるだろう。

『ニューポート・ジャズ・フェスティバル』を範にした『ニューポート・フォーク・フェスティバル』は1959年に始まっている。このふたつのフェス、主催はどちらもジャズのプロデューサー・プロモーターとして知られたジョージ・ウェインで、ジャズの関係者ではあるものの、良い音楽を広めたいという意志のもと、さまざまなフェスをスタートさせている。他によく知られているものでは、『ニューオリンズ・ジャズ&ヘリテイジ・フェスティバル』(70年~)や『プレイボーイ・ジャズ・フェスティバル』(59年~)などがある。

■フェスにおけるボブ・ディランと 吉田拓郎へのヤジ

60年代中頃以降、『ニューポート・フォーク・フェス』にはロックのアーティストもしばしば登場するようになる。このフェスで特に知られているのは、フォークからロックへ転向したということで、旧態依然としたフォークファンからボブ・ディランが罵倒を浴びせられたエピソードかもしれない。フォークの神様ディランがロックに魂を売ったという出来事は、60年代半ばまでのロックの置かれた社会的立場が低かったことを意味する。当時、フォークやブルースのアーティストは政治的な立場をしっかりと持っており、若い学生でも公民権運動やベトナム戦争などに対する意識が高かったのである。もちろん、当時の日本でも社会問題や安保条約に対して自らのスタンスを明確にする若者は多かったし、アーティストたちに対しても反体制でなければ認めないなど、そんな時代でもあった。

日本での野外フェスの草分けで、69年に始まった『中津川フォークジャンボリー』の第3回(71年)に出演した吉田拓郎が岡林信康や高田渡らのファンからヤジられたり、ジャズヴォーカリストの安田南のステージでは暴徒が乱入してフェスを妨害するといった事件が知られているが、世界的に体制と反体制が二分化していた時期なのである。60年代の後半になるとロックも表現手法が複雑になって音楽性や芸術性の高いものが生み出されるようになり、多くの支持を集めるまでに成長する。ほんの数年で、ディランへのバッシングはまるで遠い過去の出来事のように霧散していく。

■『ウッドストック・フェス』への道のり

話を戻す。『ニューポート・フォーク・フェス』は当初からライヴ録音や映像化が進められており、これが後の『ウッドストック』への布石となる。67年に行なわれた最初の大きなロックフェスと言っても過言ではない『モンタレー・ポップ・フェスティバル』に影響を受けたマイケル・ラングは、翌68年にフロリダ州マイアミで『1968ポップフェスティバル』を主催する。このフェスにはジミヘン、マザーズ、ブルーチアーなどが出演し、2万5000人もの観衆を集めることに成功した。

ラングはウッドストックにレコーディングスタジオを建設し、ディランやジャニスなどの多くのアーティストに使ってもらうのが夢であった。その資金を捻出するためにもっと多くの人が集まる野外フェスを開催しようと、キャピトルレコードのアーティ・コーンフェルドに相談すると、資金集めには大きなフェス(ラングはノウハウがあるから)をやるべきだという結論に達し、ジョン・ロバーツ(資産家)とジョエル・ローゼンマン(弁護士)に資金の調達を依頼、賛同を得ることができた。

しかし、何と言っても最大の問題は、大きな野外会場を確保することだ。ウッドストックは東部とはいえ保守的な田舎であったからフェスの会場探しは困難を極めた。最終的にウッドストックから少し離れたホワイトレイクにあるマックス・ヤスガー農場に決まったものの、場所が決まったのはフェスの1か月半前のこと…。

出演者のブッキングは、当時圧倒的に人気があったCCRの獲得にまず成功する。CCRが出るのならばと、他のアーティストも次々にサインし、30組を超える出演者が決定した。ラングが手がけた前年の『ポップフェス』にマザーズを率いて出演したフランク・ザッパは、田舎での野外フェスに難色を示し辞退している。

■『ウッドストック・フェス』の4日間

フェスの前売り券は18万6000枚が売れていたので、主催者側は20万人程度が来ることは予測していたそうだが、実際には数日前から会場周辺に人が集まり始め(ゲートの準備が遅れていたので、前日までに集まった者はタダ見である)、正規入場者とほぼ同数の20万以上が押し寄せたとも言われている。結局、入場ゲートの設営もできず、コンサート当日には40万〜50万人が集まる未曾有のフェスとなった。ここに集まった観客は数日間、トイレ、食料、水、雨、ぬかるみ、不衛生、ゴミなどに苦しめられることになる。

それだけの人間が集まるわけなので、会場周辺の道路は渋滞で車は動かず、アーティストたちの到着も遅れに遅れた。フェスは8月15日(金)の4時スタートの予定であったが、トップバッターのスウィート・ウォーターはまだ来ておらず、すでに到着していた黒人フォークシンガーのリッチー・ヘイブンスに先に演奏することになった。しかし、彼の素晴らしい演奏のおかげで、このフェスが伝説となったと言っても過言ではない。彼は観客を熱狂させ、フェスの成功を予見させるパフォーマンスを2時間近くにわたって繰り広げたのだ。この日の演奏者は9組、『ニューポート・フォーク・フェス』のようなフォーク中心のプログラムとなった。

翌16日(土)は正午過ぎから翌日17日の朝10時ごろまでのオールナイトライヴとなった。サンタナ、マウンテン、CCR、デッド、ジャニス、スライ、フー、ジェファーソン・エアプレインなど、当時の大物アーティストがこぞって演奏、衛生状態が悪く食料も少ない中で観客は大いに盛り上がったようだ。途中、前日同様アーティストの到着が遅れたため、観客として会場にいたウッドストック在住のジョン・セバスチャンが頼まれるまま演奏することもあった。

最終日となるはずだった17日(日)は午後2時からジョー・コッカーのステージで幕を開けた。この後、フェス会場を嵐が襲い、雨風で荒れまくる。会場全体がぬかるみになってしまい、日曜日ということもあって、翌日の仕事に備えて観客はどんどん帰っていく。以降、嵐のせいで時間が大幅にずれ込みながら、テン・イヤーズ・アフター、ザ・バンド、ジョニー・ウィンター、CSN&Yなどが続き、最後のジミヘンが18日(月)の朝11時過ぎまで演奏し、フェスの幕は閉じる。ここまで残っていた観客は20万人であったとか、1万人弱であったとも言われているものの真意のほどは不明だ。

■理知的な数十万人の若者たち

フェスは不衛生な環境で、食料不足、トイレ不足、雨風、ぬかるみなど、大変な状況であったことは間違いない。しかし、そんな状況にあっても大きな問題は奇跡的に起こらなかった。ほとんど誰も管理していないフェスで、数十万人の若者たちが個々の裁量によって活動し、かつ成功裡に終わったということは、当時のアメリカの若い大衆が理知的であったということである。西海岸で巻き起こったヒッピーに代表されるフラワー・ムーブメントの影響はあるかもしれないが、60年代末にアメリカが抱えていた人種差別やベトナム戦争といった多くの問題について、フェスに参加した人たちはよく認識していたし、共生とか平和への意識が高かったのである。食料を持っている人は持っていない人と分かち合うなど、みんなが助け合いながらフェスを楽しんだ。だからこそ、『ウッドストック』は未だに語り継がれるアメリカ最大のロックフェスになり得たのではないだろうか。『ウッドストック』はロックは社会的な文化であると確信できた素晴らしいイベントであった。

■本作『「ウッドストック」オリジナル サウンドトラック』について

フェスの後、翌70年にリリースされたサントラは3枚組(もちろんLP)であったが、全米チャートで4週間1位となり、71年には『ウッドストック 2』(グリン・ジョンズのプロデュース)もリリースされた。25周年を迎えた94年には、未発表を加えた4枚組CDがリリースされ、2009年(40周年)にはもっと多くの音源から6枚組CDがリリースされるなど、このフェスに関するアイテムは充実するばかりである。映画のほうも未発表映像を加えたディレクターカット版がリリースされているので、興味のある人はぜひこの機会に観て(聴いて)ほしい。

本作『「ウッドストック」オリジナルサウンドトラック』(CDは2枚組)の収録曲では、ハイライトはやはりリッチー・ヘイブンスの「フリーダム」とジミヘンの伝説的な「アメリカ国歌〜パープル・ヘイズ」の2曲で、どちらも映像を観た者なら感動せざるを得ない名演である。他にジョン・セバスチャン、キャンド・ヒート、カントリー・ジョー、アーロ・ガスリー、シャ・ナ・ナ、ジョーン・バエズ、CSN&Y,ザ・フー、ジョー・コッカー、サンタナ、テン・イヤーズ・アフター、ジェファーソン・エアプレイン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、バタフィールド・ブルース・バンドの演奏が収められているが、ウッドストックの演奏でないものやスタジオ録音までがあって少しややこしいが、嵐の時の観客の声やステージアナウンスなども収められて臨場感のある構成となっている。できれば映像と合わせて視聴してもらえば、当時の熱い雰囲気が味わえると思う。今年の50周年記念フェスはどんな演出になるのか、今から待ち遠しい気分である。

TEXT:河崎直人

アルバム『Woodstock: Music from the Original Soundtrack and More』/V.A.

1970年発表作品

<収録曲>

■Disc 1

01. アイ・ハッド・ア・ドリーム (ジョン・B・セバスチャン)

02. ゴーイング・アップ・ザ・カントリー (キャンド・ヒート)

03. 自由 (リッチー・ヘヴンス)

04. ロック・アンド・ソウル・ミュージック (カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ)

05. ロスアンジェルスにやって来て (アーロ・ガスリー)

06. アット・ザ・ポップ (シャ・ナ・ナ)

07. アイム・フィクシン・トゥ・ダイ・ラグ (カントリー・ジョー・マクドナルド)

08. ドラッグ・ストア・ドライブァー (ジョーン・バエズ・フィーチュアリング・ジェフリー・シャートレフ)

09. ジョー・ヒル (ジョーン・バエズ)

10. 組曲:青い眼のジュディ (クロスビー、スティルス&・ナッシュ)

11. 狂気の海 (クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)

12. 木の舟 (クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)

13. 俺達はしないよ (ザ・フー)

14. 心の友 (ジョー・コッカー)

■Disc 2

01. ソウル・サクリファイス (サンタナ)

02. アイム・ゴーイング・ホーム (テン・イヤーズ・アフター)

03. ヴォランティアーズ (ジェファーソン・エアプレイン)

04. メドレー:ダンス・トゥ・ザ・ミュージック~ミュージック・ラヴァー~アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユア・ハイヤー (スライ&ザ・ファミリー・ストーン)

05. 虹をあなたに (ジョン・B・セバスチャン)

06. ラヴ・マーチ (バターフィールド・ブルース・バンド)

07. アメリカ国歌~紫のけむり~インストゥルメンタル・ソロ (ジミ・ヘンドリックス)

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