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松田聖子を元はっぴいえんどのメンバーが本格ディーヴァへと導いた重要作『風立ちぬ』

1stシングル「裸足の季節」の発売が1980年4月1日。松田聖子が先日、ジャスト、デビュー40周年を迎えた。1980年代を代表するトップアイドル中のトップアイドルであり、日本の芸能史にその名を刻む大スターであることは改めて説明するまでもなかろう。松任谷由実や財津和夫らとともに数々のヒット曲を世に送り出してきたが、彼女のアルバムの中から1作品を挙げるとするならば、やはり元はっぴいえんどのメンバーが制作に関わった『風立ちぬ』になるのではないだろうか。彼女の歌手としての変遷を振り返りつつ、その作品の位置付けを改めて考えてみた。

■社会現象となったトップアイドル

“松田聖子”とググってあれこれ調べていたら、彼女に付随する数ある語句の中に“ぶりっ子”なる言葉を発見。超久しぶりにその文字面を見た。その“ぶりっ子”は、漫才コンビの春やすこ・けいこの十八番のネタだったし、一説にはこの言葉を流行らせたと言われる山田邦子が「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」なるレコードをリリースするほどに持てはやされた言葉ではあった(豆知識→この「邦子の~」は日本におけるラップミュージックの元祖のひとつとも言われている)。誰かが彼女に面と向かってそれを連呼するような場面があった記憶はないけれど、一時期、松田聖子は“ぶりっ子”の象徴であった。それははっきりと覚えている。そんなふうに揶揄されるのも人気者の常なのだろうけど、デビュー間もなくトップアイドルになった松田聖子ではあったが、当初はそこに若干の嘲笑があったようには思う。松田聖子ののちにデビューした中森明菜、中山美穂辺りにどこかツッパリ的キャラクターが付与されていたり、小泉今日子が脱構築的なアイドル像を提供したりしたことは、“松田聖子≒ぶりっ子”の図式と無縁ではなかったような気もする。そう考えると、嘲笑の対象となったとはいえ、それ自体がしっかりと後世に影響を与えているのだから、これもまた彼女が大物だった証明とも言える。とにかく“ぶりっ子”は──少なくとも最初期において、松田聖子の重要なキーワードであり、高機能なキャッチコピーではあった。

しかしながら、もしその後そうしたイメージだけが継続されていたとしたら、松田聖子が現在のような老若男女問わず誰にも愛されるシンガーとなっていたかどうかというと、それははっきり“否”だと思う。その後の彼女の歌手人生が長続きしなかったとまでは思わないけれども、幅広い支持を集めていたかというと疑問は残る。こんなことがあった。松田聖子がチョコレートのCMの中で同じ年にデビューした田原俊彦と共演。1980年のことだ。若いアベック(※死語)の仲睦まじい姿が描かれた、今思ってもさわやか以外の何物でもない映像なのだが、そこは当時のトップアイドル同士のこと。特に田原俊彦=トシちゃんのファンの拒絶反応が半端なかったという。スポンサーへの抗議が殺到した挙句、CMは早々に打ち切られることになった。心ないファンからカミソリの入った脅迫状が届いたとも聞く。

ふたりが共演したことをスポンサーに抗議すること自体、呆れるばかりの出来事なのだが、それほどまで各々の人気が過熱していたのである。当時“聖子ちゃんカット”が大流行したので彼女に憧れる女性も相当数いたことは確かだが、一方で、アンチも多かった。そのアンチが女性ファンを相殺するほどにいたかどうかは分からないけれども、少なくとも1981年頃まで、すなわちデビューから1年間程度は圧倒的に男性ファンが支えていたことは間違いない。それは彼女のコケティッシュなキャラクターがストレートに作用した結果であっただろし、デビューシングル「裸足の季節」からブレイクを果たした2ndシングル「青い珊瑚礁」、そして3rdシングル「風は秋色」辺りまでは、今サッと聴き返しても、そのキャラクターを定着させるために腐心した作品群であったことが分かる。

■豪華な作家陣が支えたその才能

そののちに、松田聖子はシングル曲の首位獲得数や首位連続獲得数、あるいはアルバムの首位獲得数において歴代女性アーティストの1位となって、邦楽史にその名を残す大記録を打ち立てることになるのだが(※現在は1位の座を譲っている)、デビュー時からその歌唱力には高い評価があったとはいえ、歌の上手さとキャラクターだけで歴史に名を刻むことができたかと言えば、これまた“否”と言わざるを得ないだろう。歌が上手くてキャラが立ってるというだけなら、アイドルに限らず、わりといる。それを凡百と言うのは失礼かもしれないが、実は結構いたりする。歌唱力とキャラクターだけで40年以上も歌謡界のトップにいられるわけがない。不可能だと断言してもいい。アーティストの確かな才能を支え、ともに作品や世界観を作り上げるスタッフがいてこそ、長きにわたって第一線で活躍が可能なのだと思う。

その点では、松田聖子のスタッフワークは極めて優秀だった。アイドルには“2年目のジンクス”がある。最近、芸能界ではあまり使われていないようなので、そういうジンクスがあった…というべきかもしれないが、当時はまことしやかに言われていた。デビューの翌年にはリスナーから飽きられてしまうという迷信である。松田聖子のマネジメントはデビュー2年目から積極的に動いた。そこまで小田裕一郎が手掛けていた作曲を、チューリップの中心メンバーであり、シンガーソングライターとしても名を馳せていた財津和夫に託した。4th「チェリーブラッサム」、5th「夏の扉」、6th「白いパラソル」といった1981年にリリースしたシングルは氏によるものだ(1982年の11th「野ばらのエチュード」も氏の作曲)。この4th~6thは今聴くと1st~3rdから劇的に変化した感じはないものの(財津氏がそうした主旨の発言をしていたようなのだが、そう意識してあれだけのクオリティーのメロディーを作れるのだから、流石に“和製ポール・マッカートニー”である)、財津が作曲したこと自体も話題となり、ニューミュージック畑のリスナーにも松田聖子の存在を知らしめる効果もあったように思う。作曲家は変わったが、作詞家は変えなかったことも見逃せない。5th「夏の扉」までは三浦徳子が続投。それまでの世界観を損ねなかったことで、従来のファンが離れることもなかったのだと思う。以降もシングルのチャートリアクションはずっと1位のままで、その人気は不動のものとなった。

スタッフはさらに攻めた。7thシングル以降も新たな作家を導入。松任谷由実(呉田軽穂名義)、細野晴臣、佐野元春(Holland Rose名義)、尾崎亜美、土橋安騎夫、大江千里といったアーティストたちとコラボレーションを実現させていく。次々と生み出されるカラーの異なる楽曲はファンを大いに楽しませたし、これもまたリスナーの裾野を広げることに大きく寄与したであろう。また、これによってシンガーとしての表現力が確実に増し、松田聖子自身が大きく成長を遂げたとも思われる。1990年代からはセルフプロデュースを行ない、1996年には自らが作詞作曲したシングル「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」がヒット(現在までのところ、この楽曲が松田聖子のシングルでもっとも売り上げたナンバー)。近年はジャズ作品を発表するなど、完全に一アーティストとして突き抜けているが、1980年代にバラエティー豊かな作家たちが手掛けたさまざまなタイプの楽曲を歌いこなしたことがその礎となったことは容易に想像が付く。この頃が、松田聖子がスーパーアイドルからスーパーディーヴァとへと移り行く上で、もっとも重要な時期だったと振り返ることもできよう。

■大滝詠一の作風が色濃く反映

その中でも最重要ポイントと言えるのが、多くの識者が指摘している通り、4thアルバム『風立ちぬ』だろう。本作では作家陣を前作から全て取り換えるのではなく、財津和夫に作曲が託された時に作詞家は三浦徳子が続投したのと同様、上手い具合に引き継ぎ(?)がされている。シングルで言うと、6th「白いパラソル」から作詞が松本 隆に替わり、7th「風立ちぬ」で作曲が大瀧詠一となった。そういうこともあってか、アルバム『風立ちぬ』収録曲は、大滝詠一、財津和夫、鈴木 茂、杉 真理が作曲を手掛けているのだが(作詞は全て松本 隆)、大滝曲とそれ以外ではタイプが異なる印象である。M1~5が大瀧曲で、M6~10が財津、鈴木、杉の曲と、A、B面でコンポーザーを分けているから余計にそう感じるところもあるだろうけど、シャフル再生したとしてもそのカラーの違いは分かると思う。

大瀧曲とそれ以外とでは、そもそもメロディーの質やタイプが異なっていると言ったらいいか。大雑把に言うと、財津和夫が氏らしさの中にも歌謡曲テイストを注入していたとするならば、大瀧曲はその歌謡曲っぽさが薄い──そんな感じだろうか。M5「風立ちぬ」は十分キャッチーでシングル曲らしくはあるが、それ以前のシングルで見せた高音域へ突き抜けていくような旋律が強調されていない…といった言い方でもいいかもしれない。

アレンジはA面の大瀧曲は大瀧自身が、B面はM8以外を鈴木 茂が行なっているが、メロディー以上に各々の作風がはっきり出ている印象だ。その辺りはWikipediaの解説が端的に言い表していた。以下に引用させてもらう。[「Side A」は大瀧のサウンドプロデュースによる独特の作風が色濃く出ており、これまでの松田の作品と一線を画している。大瀧は、今作の7ヶ月前に発表された自身のアルバム『A LONG VACATION』の収録曲と対になるようにそれぞれの曲を制作したと『大瀧詠一作品集Vol.1』のライナーノートで解説している。また、これまで松本と組んだ作品は、「はっぴいえんど」等での実験的な作品ばかりだったので、歌謡界で商業的に通用するかどうかの試金石だったが、今作がヒットして自信になったとも述べている]([]はWikipediaからの引用)。本作が大瀧にとっても、松田聖子にとっても、新たな試みであったことがよく分かる。

アルバム自体が端境期の作品であったからか、歌詞は松本 隆が一手に引き受けているとはいえ、それまでの世界観を踏襲したものと、その時点での新型と言えるものが混在しているのが興味深い。“ぶりっ子もの”に分けられるタイプもあれば、ファンタジックなM4「いちご畑でつかまえて」、スキーが題材で今となれば“これはのちに松任谷由実と組むことの布石だったのではないか!?”と思ってしまうようなM10「December Morning」、そして、堀辰雄の小説をモチーフとした、まさしく文学的なM5「風立ちぬ」もありと、実にバラエティー豊か。大作家を指してこんなことを言うのも大変失礼だろうが、本作以降、数多くの松田聖子の歌詞を手掛けていったことも納得のハイクオリティーである。個人的に注目したのは下記のタイプ。

《あの日彼のバイクの/後ろに乗って/夕陽探しに来た秘密の場所》《濡れた岩に刻まれたイニシャルが/過ぎた時を呼び戻す》(M2「ガラスの入

《もう タイヤまで/滑らせてドリフト/ねえ そのたびに/抱きついてしまうの/知っててあなたはわざと/怖がらせる悪い人だわ》(M9「雨のリゾート」)。

この辺は松田聖子に限った話ではなかったのだろうが、当時のアイドルがどの辺の層をターゲットにしていたのかが推測できて面白い。

TEXT:帆苅智之

アルバム『風立ちぬ』

1981年発表作品

<収録曲>

1.冬の妖精

2.ガラスの入江

3.一千一秒物語

4.いちご畑でつかまえて

5.風立ちぬ

6.流星ナイト

7.黄昏はオレンジ・ライム

8.白いパラソル

9.雨のリゾート

10.December Morning

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